物を捨てられない(溜め込み障害)
部屋が散らかり、物があふれている人は意外と多い。
私もこれまでそうした知り合いを何人も見てきましたし、実際に部屋を訪れ片づけを手伝ったこともあります。
私もそうですが、掃除や片付けが好きな人や、そもそも物を買わない、物を部屋に置きたくない人からすればおおよそ理解しがたい感覚でしょう。けれど、物をため込む気質の人も実社会では意外と普通に見える人たちです。
普通というと語弊があるかと思いますし、ゴミ屋敷のような極端な事例は別として、何気ない日常の中に潜んでいる現代の影のように彼らは存在しているのです。
誰も自分の住空間を足の踏み場もないほどに物で埋め尽くそうなどと意図してるひとなどいないでしょう。
はじまりは些細なことだったと思います。
物を大切にしたい、勿体ない精神からスタート。
やがて物に執着心が湧いてきてしまい、将来への恐れや不安感と相まって、物を手放せなくなる。
物質的な執着のみならず、物事のとらえ方や考え方といった精神的な部分でのこわばりやこだわりのようなモノも含まれる。
一度自分の考えに固執してしまうと、ますます片付けが億劫になったり、そうなっている原因である考えを改めるのがどんどん難しくなる。そうするうちにもうどうすればいいかわからなくなり、何も行動できなくなる。
とはいえ、生きるための必需品は増え続け、物だけでなく自分の固執した考え、つまり自己欺瞞や自分の精神を守るための言い訳も肥大し続ける。………自分の心身を覆いつくほどに。
うすうす自分の病んだ状態を認識しながらも、何もできずにいる自分へのやるせなさ。病的な自分に気づいてほしいというSOSを出している状態、気づいて助けてほしいという願望。
ダメな自分になることで、これまで平凡だった自分から脱却し特別になれるという歪な感覚。と同時に、これじゃいけない変わりたいという思いにより、変わるきっかけを求める心理。
このように、物理的な部分のみならず、精神的な要因によって現象化する『物を捨てられない』という事象。事は単純に物を捨てれば解決というわけではないのだ。
物を捨てられない人は物にあふれる社会から孤立し孤独な自分の心を補うため、身の周りに物があることで安心感を得ているのだとすれば、社会が秘かに抱える問題を先に片付けねばならないだろう。
それすなわち、一度得た豊かさを手放せないという社会の抱える障害。
いまそこにあるモノたち
そもそも『溜め込み障害』というように、病名をつけた上で状況を解決に向かわせる必要があるのかという疑問はある。
さらにいえば、自分のこともままならなくなってしまっている人に、あれやこれやと解決策を提示したところですぐに行動するのはむつかしいだろう、ゆえに周りの助けも本人の意思を尊重する範囲で有効かもしれない。
仮に物を捨てられない人たちを救済できるとするならば、徐々に別の考え方に導く方法があるでしょう。物を捨てる、断捨離すると何かいいことがある、世のため人のためになる、というように。
物質はエネルギー(波動)なので断捨離すると別の形で帰ってくる、質量保存の法則的な。まずは半信半疑でもいいので実際にやってみる試し続けることだ。
必ずしも望む形での還元でないにしろ、物を循環しているうちにやがての楽しみとして、そのことを信じられるようになればだんだん習慣化しようやく断捨離の意味が腑に落ちるのだ。
半ば強引だとしても、やはり実際に自分の意志と力で物事を始めてみるのは大切なことなのだ。
一部の人たちには、おおよそ信じられないだろうけれど、自分の周りにあるモノはすべて自分の心が生み出したもの。自らが内包しているエネルギーが物質として身近に存在している証拠。
そのことにさえ気づくことができれば、自分の周りの物や人といった環境に無条件で感謝できるようになる。目に見えているものだけでなく、おかげさまの真の意味が分かるのだ。
それならばこそ、いま自分の周りにあるものすべて事の大小はあれど何かしらの意味があるのだ。その心意気に達すれば、あとはもう大丈夫、何事にも感謝しつつ自分らしく生きられるだろう。