見出し画像

罪を憎んで人を憎まず、でもやはり憎い

もう長いこと、一体どうして人間は罪を犯すのだろうと考えてきた。

この世界は複雑で、不可解で理不尽。

人間は愚かで弱く浅ましい。

もちろん私もそのひとりに違いなく、だからこそ思うことがある。

今日はそのようなとりとめのない話をしたい。

親ガチャ失敗の真相

親の罪を償うのはいつも子供、だがしかし、必ずしもそうしなければならないわけではない。
親の罪の正体は、自分自身の弱さの顕在化だからだ。
罪を償うのではなく、自ら己の弱さを手放せるかが問われているのだ。

けれど若いころにそんなの分かりっこない、誰も助けてなんてくれないし、でもだからこそ全部後からわかる。決して親や周り、ましてや自分自身を責めなくていい、誰も何も悪くはないのだ。

そりゃ子供を虐待するような親が悪くないなんて、誰だって信じたくない、でもそれとこれとは別なのだ。

まずそこに罪があって、罪によって加害被害というある種演じ分けのような状態が一時的な役割として、半ば強制的に与えられているだけ。

この世には生まれながらの邪悪な存在などはおらず、人生の歩みをすすめるうちにだんだんと自分でも思いもよらない人格が形成され、やがて罪を犯してしまうものなのだ。

学校のいじめにしても同様に、いじめる側、いじめられる側という状況がある日突然現れ周りの人間も巻き込む。

一見当事者同士の問題のように見て取れるいじめの現場、だがしかし、いじめを傍観する、見ているだけという行動は何もしていないのも同じ。現に目の前で起こる事象に誰もが無関係ではいられないから………。

このように、たびたび目の前に現れる出来事はまるで映画のワンシーンのようで、その都度否応なく役割が配分され、適宜誰しもがなにかしらの役を演じざるをえなくなる。

自分たちが生きる境遇や環境は、ある意味映画のシナリオや脚本やセットのようなものであり、自分が望む望まざるにかかわらず、ある日突然目の前に現れる。

ゆえにそのワンシーンで仮に罪を犯してしまう役割を演じることとなったとしても、演者だけに責任が及ぶのはおかしいことだ。先のとおり、この世の事象を映画のシナリオのようなものだと考えるのであれば、そのシーンにかかわった全員に咎が及ぶのが自然だろう。

よって事件や事故といった出来事が起こった場合、関わり合いになった全員に少なからずの影響を及ぼす。つまり罪が悪なのではなく、罪によって与えられる体験が重要ということなのだ。

であればこそ、罪を犯した人間はその役割を演じただけなのだから、それは償うことができるべきものなのだ。憎むべきは罪という存在自体であり、親や周りの人々や環境などではないのだ。

自分と同じように周りのすべてが、ある日突然思いもよらぬ出来事に巻き込まれただけだからだ。そして罪をどんなに憎んだところで、この世界からなくなることはない。

さらにいえば、いくら理不尽な世の中を呪ったところで無駄であり、自分が空しくなるだけ。結局最後には、すべてに降参し周りも自分も許し、罪を受け入れざるをえない。

罪という存在をただ受け入れることは、すなわちありのままの人生をただ受け入れることと同義なのだろう。

一体どうしていつも損な役割を演じねばならぬのか

自意識過剰自衛回路

自意識過剰回路は、自分が生きる上で最も辛かった時期、自分自身で作り出した自衛回路(トラウマ)。なのでまた辛い思いをした時のために、あらかじめその回路を維持し続けようとする。

でもそれには分不相応なエネルギーリソースを消費し続けることになる。窓を開け放った部屋で意味もなく空気清浄機をつけっぱなしにしているようなもの。

そのための救済措置として、人間は忘れるという特技を持って生まれる。けれど、まじめで賢い人ほど過去の出来事を鮮明に覚えているため繰り返し思い出し苦しむ。

本来は自分自身を守る自衛機能だったトラウマが自分を傷つける刃となってしまったのだ。ともすれば、トラウマに捉われた人は自虐的な行為に走る。

散財したり、自傷したり、薬に頼ったり、ジャンクフードをヤケ喰いしてしまったり、ホストに貢いだり。………全部自分を守るための優しいウソだ。

その結果、お金が無くなる、鏡に映る体は傷だらけ、薬の過剰摂取で緊急搬送、過度な肥満、などといった急激で過激な愚かな行為も実際は最短の時間で本来の自分を思い出すための自己欺瞞行為。

周りから見れば、なんと愚かで情けのない姿のように映る、でも本人にとっては、今この瞬間に必要で大切な行動。なんとも不器用だけれど、自分はちゃんと自分を整える方法を知っているのだ。

誰もが上手に生きる術を身につけているわけではない、ゆえに何度も同じような過ちを繰り返す。だがしかし、どんな人でもいつか必ず自分自身で答えのようなものにたどり着き、自分を信じられるようになる。

きとんと自分を信じることで、時間とともにトラウマは風化し、あとから自分に必要だった良き出来事として思い出せるのだ。

綺麗ごとのように聞こえるかもしれないが、自分の身にどのような事態が降りかかろうとも大丈夫なのである。

トラウマなんてものは本当はいらない

おわりに

本稿の内容は、多くの人々にとって不愉快なものであったように思う。

私自身、幼少期、学生時代、社会人になってからもイジメや意地悪には何度も遭遇し、その都度思い悩んできた。

「悪は悪いに決まってる!」「善人はいい人に決まってる!」それはそう。

弱いものを姑息な手段を用いて騙し、蹂躙する輩。
馬鹿正直な人を陰で笑い、平気でイジメる輩。

彼らの存在自体に憤る気持ちは皆と同じでしょう。それでもなお、最近ようやくいろいろと理解し腑に落ちてわかるようになってきたのだ。そもそも輩なんて自分の人生とは無関係なのだ、自分がそのことに気づけさえすれば。

誰も助けてくれないなんて思いこまず、いつも自分の心に寄り添い、これまでの自分の選択や考え方を少し変えるだけでいいのです。

いまもし辛い状況にある人がいたら、「元気出して」と言いたい。
元気という字は、元の気と書きます。本来のあなたの状態になればきっと大丈夫だよと言いたいのです。

辛いという字と幸せという字を見てください。
辛いに横棒を一つ足すと幸せになるのです。辛い状況にある人は、そのことに気づけないほどに、元気じゃなくなって自分を見失っているのです。

優しいあなた、愛すべきあなた、素晴らしいあなた。

ろくでなしの親、学校や職場でイジメてくる輩、辛いだけの糞な境遇、そんなのぜんぶあなたとは無関係。

無関係というよりも、あなたがあなたを取り戻すために、それらの糞が押し寄せていただけなのだ。糞まみれの人生、何も楽しくない、だから人生に意味を見いだせない。

そんなの当たり前、よくわかるよ、みんなそうだから、でもそうじゃない!

あなたは、あなたという素晴らしさを体験するためだけに生まれてきた。仮にあなたに落ち度があるとすれば、そのことを忘れてとぼけた人生を生きている、その一点のみだ。

あなたが今すぐ目を覚まし、あなた自身を生きたとき、その瞬間を幸せと呼ぶのだ。

何度でも言おう、「くそ野郎どもはもう置いていけ!」

あなたは、あなたを生きていい。

あなたは、ひとりでもすすんでいい。

いまこそ、その時だ。

いつも本当にありがとう。 これからも書くね。