恋人なんて居なくていいんだよ
女子中学生の間で急に始まる、連日の恋バナ。
中二病を発症した男子の間で学校のマドンナ投票が行われる。
奥手な子たちにとって、これほど不毛でキツイ展開はない。
誰と誰が付き合ってるとか、そもそも誰が誰を好きとか関係なくない?
暇なの? 探偵なの?
異性をどうでもいいとは言わないが、趣向は人それぞれでいい筈なのに、となんだか辟易する。
卒業後、ようやくその子たちから解放されたかと思えば、社会に出てからもこの流れは続き、いやむしろ加速する。
ああそうか、だって彼らも一緒に社会人になって、相変わらず愛だの恋だの言ってるのだから当たり前。
あまりにも不自然な映画やドラマの愛の押し付け、感化された人々は、より良い自分になりたいと何かをしようとしたり、何かを手に入れたいと思う。
その結果、巡り巡って美容商品や健康器具が売れたり、美容室やエステなどが賑わい、勉強関連の施設を人々が訪れる。
こうして人の流れ、経済効果、人と人との絆が生み出されてゆく。
人生とは、ある意味で自分だけの体験の集積。実際に体験することにより、あとからありがたいという感謝の思いが湧き上がってくる。
恋や愛とは、つまるところ感謝に至るためのひとつの道程であり、動機付けの意味合いが大きい。
特に若いころは、周りのカップルや夫婦の話、出産や育児の話などに気持ちが焦るかもしれませんが、その心は煩悩の一つとされる羨望。
煩悩とはある意味、人間だれしもが生まれながらに持つ自動的に起動するアプリみたいなもので、ある意味取るに足らないもの。
そのことが分かれば、周りがパートナーシップで思い悩んでいたり、どんなに幸せそうにしていたとしても自分とは無関係であることに気付ける。
ひとりひとり生きるペースは違っていて、ひとそれぞれの価値観の元、折々の人生模様を描き出すものだから。
とはいっても、周りから事あるごとに愛だの恋だの言われ続ければ、誰だって独りぼっちな自分に虚しさを感じるのは自然なことだ。そうして、あたかも孤独な自分を悲劇の主人公であるかのように演出し、自分を慰める。
あるいは、自分はひとりでも大丈夫、と孤高な自分を演じ強がり、自己欺瞞の中を生きる。周りに影響され、自分の人生を見失い、偽りの人生をぐるぐると生きている。
でもそんな負のループから逃れるのなんて簡単。
周りに影響を受け、自分を見失ったときは、まず自分の立ち位置を再確認し、落ち着いてリスタートすること。
おそらく誰もが自分でも気づいていない何かをすでに持っているはず。自分が好きなこと、癒されるもの、夢中になれるものがそうです。
そうしたものに取り組んでいる際、ある瞬間ふいに我に返り「こんなの意味ない」なんて空しくなりがちだけれど、決してそんなことはない!
きちんとその時に自分に必要な事柄に取り組んでさえいれば、結果として自分の在り方が定まり、軸と心が整いようやく何かが始まるのだ。
自分の心が整ったとき、幸せはやってくる。自分を好きになれたとき、自分を愛せたとき、自分の半身であるパートナーが現れる、望む望まざるにかかわらず、おおむね必ずやってくる仕組みなのだ。
ただ一点注意しないといけない、彼らは白馬の王子様ではないから、むしろ憧れとは程遠い見た目でやってくる。けれども、今の自分に必要な要素を兼ね備えた存在なのだ。
ゆえに、はじめ違和感しかない存在であったとしても、油断なく観察することが大事なのです。
「え、まさか、この人が?」(ハイ、そいつです)
仮に誰も現れなくたっていい、だってもうすでにひとりなのだから、これからもしばらくその状態が続くだけ、これまで通り『おひとり様』を楽しめばいいのだ。
たとえパートナーがいなくても、あなたという存在価値はゆるぎないものであり、唯一大切な存在だからだ。
そんなわけで、今日も元気にいてくれるだけでもう十分なのです。
毎日を自分らしくふるまい、堂々としていればいいのです。
今日もあなたでいてくれることに感謝し、本日はこのあたりで失礼します。
「ありがとう」