マクロの世界とミクロの世界は相反する
マクロの世界とは目に見える世界。
ミクロの世界とは目に見えない世界。
この世のすべての物質をその最小単位である素粒子へと分解したとき、マクロの世界の理は通用しなくなる。
その世界がミクロの世界、目に見えない世界であり、マクロの世界と正反対の理で動いている世界。
私たちがこの世の法則と思いそう信じているものはマクロ世界においてのものであり、ミクロ世界では相反する。
この世が無常といわれる所以はこの相反する世界の性質によるもの。
ミクロの世界とは私たちの精神世界、マクロの世界とは目に見えている物質世界。ミクロ世界の方の精神的な法則を『無常なる法則』とここではあえてそう呼ぶ。
精神は光速をも超える
この世界では動いているものは時間の流れが遅くなる。
人の人生もこれと同じである。
時間は誰にも等しく流れているわけではない。その証拠に日々を意欲的に生きていている人とただ何となく生きている人とは明らかに時間の経過が違っている。これは感覚の話ではなく、現実世界で常に起こっている話。
その場に留まり行動していない人達には今現在の物理法則が適応され、動いているものは、すべて『無常なる法則』の方が適応されるということ。
この世界では光速を超えられないとされている、でもそれは目に見えている世界での話。目に見えていない、『無常なる法則』ではそうはならない、私たちの意識は光をも超えてその先に向かう。
量子の世界がその事を教えてくれた。
決まらない決めなくてよい世界、曖昧だからこそ味わい深い世界、不確定で面白き世界。VUCA時代は加速する。
変わっていい、変わり続けていい。
変わらなければ、ではなく、変わり続けるのが必定、増大し続けるエントロピーこれがこの世の理、無常。
目に見えている世界に執着し、無常なる世界に抗うことにより矛盾が発生。つまり自分が変わらなきゃと思った瞬間に自分の軸からずれるということ。
だからこそ揺らぐ心に戸惑わないで、その心こそが必定で美しいもの。
自分が常識だと思っていることが実は行動していない場合の話であるということ。自分を生き行動し続けている人はこの範疇にはない。もっと壮大な枠組みの中を、無常の最中(無我夢中)を生きているのです。
つまりは自分の頭の中の小さな世界で生きるか、それとももっと壮大な何かの中で生きるのかの違いである。
マクロとミクロが共栄する世界
自らを何かに委ね、あるがままを生きることへ抵抗感を感じるのは、自己を無くすことが最も恐ろしいことであるという思い込みによるもの。
思い込みとは目に見えている世界の常識とされていることであり、自我。
自身が信じているそれらの思い込みによって自己中心的な、我良しの精神、我先の精神が止めどなく溢れてくるのだ。
自分のホメオスタシスは時代遅れであるという認識のもと、自分の中からやってくる煩悩にさようなら、いままでありがとう。
自分は決して消えない。
自分の匂いは消せない。
個性とはそもそもそういうもの。
ただこの瞬間を生きる。
美しいものを美しいと言い。
美味しいものを美味しいと言う。
愛している人に愛していると言う。
そんな簡単なことができなくなったのはいつからだろう。
マクロでもミクロでも関係ない。
好きかそうでないか、面白いかそうでないかで決めればよい。
時には癒されるのもいいだろう、自分にとっての心地の良いこととは?
何故なら私たちのその感覚からなる行動こそがこの世の真理だからである。
この世界とは、今を生きる私たちのように曖昧で不安定で不確かなものなのだから。
真の答えは最後のその瞬間までお預けでいいのだ。
おわりに
江本 勝さんの著書『水は答えを知っている』を読み終え、インスパイアをもってこの記事を書きました。
氷結結晶の話から最後には波動や人間の意識について帰結していきます、著名な著書でご存じの方も多いと思いますが、興味を惹かれたらあたらめて手に取ってみてください。
タイトルフォト
いつも本当にありがとう。 これからも書くね。