今日から南無 妙法蓮華経
南無妙法蓮華経とは、お釈迦さまが晩年に説いた『妙法蓮華経』であり、この言葉の意味を簡単に訳すと、「生きとし生けるものを救い導き、帰依します」ということになる。
この言の真意とは、本日はそのようなお話でございます。
「生きとし生けるものを救い導き、帰依します」と聞くと、身の引き締まるといいますか、誰もが身構えてしまうように思います。まるでお釈迦さまのように、生涯をかけて沢山の人々を導いていくという意味だろうと捉えることでしょう。ところが、この言葉の真意はそのような仰々しい言葉などではありません。
『南無妙法蓮華経』をさらに簡単に嚙み砕くと次のような意味となります。
元来、自分自身がすでに仏であるのだから、まずは自分に誠実であり続けるということ。また己を信じ、自分の目の前の出来事や出会う人々に都度真摯に向き合い、どのような結果となろうとも受け入れるという意味です。
仮に目の前に困っている人がいたら、誰しも可能な範囲で自然に助けると思います。しかし、助けを拒む相手に手を差し伸べたとしたら?
現に今、地球の裏側で困っている人たちが沢山いる、その人たちはどうやって救うの?
誰もが救済を求め、それを与えらられば本望、だがしかし本当にそうでしょうか?
個々が求める救済の形は千差万別、望む救済をいかにして与えられるだろう。自分の信じる救済を皆に与えんとすることは、己の傲慢で押しつけに過ぎないのではないか。
一人一人にどう救われたいかと尋ね歩き、それを与えていたのでは自分の人生のうちに一人ないし数人のみにしか成しえないだろう。つまりは、より多くの人々に救済をという謳いは、より傲慢な独りよがりなものではないだろうか。
この世には、自分を含めありとあらゆる人々が共存共栄関係にあるのは紛れもないこと。しかし、自分と自分以外という関係性において、誰も彼もが非常に複雑に絡まりあった世界を形成してしまってるように思う。
それはつまり、自分を社会の役に立つための人材にしなければと意気込んでいたり、あるいは周りの人々に理解されたいとか、もっと「ああすればいいのに」とか、周りに自己都合を押し付けてしまっていないだろうか。そのように自分にも周りにも多くを求め厳しい人ばかりの世の中。
この世界では、あえて多種多様な人々が共に暮らすという社会が形成されているのにもかかわらず、自分の価値観をお互いに押し付けあい、挙句にどちらが正しいだの、どちらが優れているだの対立構造を生み出し続けている。
人生で大切なのは、自分の身近な人々や出来事からはじめて、適宜丁寧に対応するということ。そして最も重要なのは、自分を愛しまずは自分が幸せになることです。
───自分の人生の意義は、『本当の自分になる』ことだから。
人生とは、自分本来を生きていくうちにいつしか、本当の自分を思い出すという仕組み。それならばこそ、もうすでにその夢は成就しているのだ。
情報化社会となって数十年、いまだにその点に気づけていない人たちが多い現状、まだまだ未成熟な社会であるといえるだろう。
自分はもう成仏している
自分自身への評価が自分の周りの人々の価値を決めているということに気づけているだろうか?
それはつまり、自分のことを10点だと思ってる人の周りの人々も同様に10点の人生を生きることになるのだ。愛する両親、愛する子供たち、家族友人知人、生きとし生ける人々。
自分自身は生まれてから死ぬまで100点なのにもかかわらず、自分で自分の人生を10点だと思い込んでいる人ばかり。それによって自分にかかわるすべての人々が10点の人生を歩んでいるのだ。
また自分と無関係であると自分が思い込んでいるその他の人々の人生も実は10点になっている。つまりこの世が10点の世界観なのは、自分でその世界を創造してしまっているということなのだ。
100点の人生とは、本来の自分で生きるということ。であれば、自分はもうすでに自分なのだから100点満点なのだ。それならば、明日から自分の人生は100点であると思いながら日々慎ましく生きてゆけばよい。自分らしく、自分のペースで、ありのままの自分で、気ままに暮らせばいいのだ。
それによって、自分の周りも100点の世界になっていくのだから。
信じる信じないの段階はとうに過ぎたのです、いまこそ実際に行動する時です。自分の行動力を信じただ日々を生きればいいのです。
ただ自分を信じ、日々身近な人々と共に助け合ってただ生きればいいのだ。
その道こそが自分本来の仏の道なのだから。
それこそが、お釈迦さまの教え、『衣鉢を継ぐ』
自分はもうすでに仏である。
ありのままに感じ生きることをして、仏と呼ぶ。
感じることの一つの表現として、思考すなわち自我がある。
感覚器官の一つに過ぎない自我による思考を手放すことが仏への最短の道。