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教育を分解して考えてみる - オランダと日本は教育でつながっていた - 金森俊朗氏から学ぶこと③【Aflevering.33】

 「学校の先生は、夜遅くまで学校に残っていたり、土日も学校にいるような環境にいては、学校の外の社会の視点を持てなくなり、今の子どもたちに必要なことが何なのかを考えられなくなる」
 これは、金森俊朗氏の書籍に書かれていた通りそのままの文章ではなく、私が少し言葉を付け足して表現しています。

 学校の外の視点がなければ、社会の変化に合わせた教育ができないという金森氏の考えは、非常に重要な指摘です。
 この考えに出会うまでは、今の業務を減らすというのは、自分の職務を軽んじている、学校以外の時間が欲しいなんてわがままだと思われるのではないかと思っていました。
 しかし、本当に子どもたちを思い、社会の変化に対応した教育をするために、外の視点を取り入れる時間というのは、むしろなくてはならないなものだと強く感じます。
 今回の記事では、「教育の本質」を考える上で必要な「教育」という概念をいろんな要素に分解して、金森氏の書籍で述べられていた考えをまとめておきたいと思います。

 公立の高等学校に勤めていた時に感じた疑問について、いろんな人と話をしたり、興味のある書籍をとことん読み、自分で時間をかけて考えてきました。そして、それを今は日本語教室での実践に役立てています。
 いろんな書籍に出会う中で、教育について問題を抱えていたオランダで講演をされた金森俊郎氏の著書がとても勉強になりました。

「学力」の捉え方

 私は「学力」とは何かという問いに対する答えを見つけるのに、とても苦労しています。ずっと試験の点数や通知表の数字ばかりを見てきた私にとって、点数以外でどうやって評価するのだろうという疑問がありました。私が現場で働いていた時に、多くの先生方から「正解がないのなら、中立的な評価はできないだろ」とか「個人の考えを評価したら大体同じ点数になってしまうから差がつけにくい」といった話を聞いていました。私も当初は同じ疑問を抱いていたのですが、国際バカロレア(IB)の評価の方法を知ることで、評価のあり方については見直すことができました。
もしご興味があれば私の別の記事をご覧ください。
「国際バカロレア(IB)の概要」
「国際バカロレア(IB)を知って、公立高校の社会科で授業をどのように変えたのか」

 話は戻りますが、金森氏にとっての「学力」とは、「自分と自分を取り巻く世界を読み解き、それを自分のことばで表現し、他者に伝え交流する力」だとしています。そこには、子どもが自分の表現力を磨く大切さも述べられていました。

 学力を測るための「知識」の役割について、私たちの認識では、知識がそれぞれ単独で存在しており、年齢が上がるにつれて覚えなければならないことが増えるという捉え方が多いのではないでしょうか。
 しかし、金森氏は、PISAの学力テストが現実世界との結びつきを大切にしているように、「知識と知識をつないでいく力、つないで具体的な問題を解いていく力」が大切であり、知識自体ではなく、それらをどう使うかということが求められているのが分かります。
 つまり、学校での学びというのは、現実世界とのつながりを持ち、今の社会を理解し、世の中を良くしていくためのものでなければならないと述べています。

 また、世界が問う学力について金森氏は、「多様な状況の中で、問題を設定し、解決し、解釈する際にその教科領域の知識や技能を効果的に活用してものごとを分析・推論・コミュニケートする力こそが、世界が問うている学力だ」としています。

「知識」と「知力」の違い

「つめこみの知識はすぐに忘れてしまう」
 これは、詰め込み式の教育を受けてきた人には共感できることだと思います。
 私も受験生の時に暗記した英単語や社会や理科の用語はほとんど忘れてしまいました。結局、今覚えているのは、自分の興味に関連していることや使用頻度の高いものです。

 知力というのは、知識とは違う捉え方をします。つまり、学び方や学びに対する姿勢のことを示しているのだと思います。
 ただの知識の詰め込みを繰り返すことが、子どもの発達にとってどんな役に立つのだろうか、という問題提起をしています。これについて、「学び」というものが新しい発見による喜びよりも、課題をこなすことに気持ちが向いてしまい、子どもたちの好奇心を奪っていくものになってしまいます。

「学び」の捉え方についても、金森氏は「カリキュラムがある時点で、自分からやろうとすることから離れてしまう」と述べています。
 私も授業をしていて体感するのですが、こちらから与える学びが最低限度必要であるとしても、学ぶ側が何を学びたいのか、どう学ぶのかについて選択する余地は残しておかなければならないと考えています。

「読書」の魅力

 日本での読書は世界最低レベルだと金森氏は述べています。

 読書の効果は、中島和子氏の『バイリンガル教育方法』(アルク選書シリーズ、2016)でもあげられています。そして、金森氏も読書による学び合いの魅力について語っています。

 読書をすることによって、自分とは別の人間として生きてみる体験ができ、想像上の世界を膨らますことができると述べています。

 また、読書による子どもの世界の広がりとともに、感受性やことばが育ちます。
 そうすると、学習にも意味を見い出せるようになって、知識を身につけて実際の文脈の中で使う楽しみを感じることができるのではないかということを述べています。
 すると子どもたちは学習が楽しいものと思えるかも知れません。

「学校」という場所はどうあるべきなのか?

 学校という場所は、時代ととも捉え方が変わってきたと書かれています。
 学校はただ子どもが学習をする場として独立しているのではなく、家族や社会とつながってともに生きる場所だとしています。

 学校というのは、失敗することが当然の権利として認められなければならない場所で、教員も学校も評価される側になってしまったことによって、「失敗してはいけない」という姿勢を子どもにも植え付けてしまっているのだと金森氏は述べています。

 これについて、私は高校生にディスカッションやプレゼンをする時に「今のうちに失敗を経験しよう」と言ったことを思い出しました。高校生のうちから失敗してはいけないシステムの中に入れてしまうと、新しい試みにチャレンジする姿勢がなくなってしまいます。

「子ども」の関係性

 金森氏は、「学校の一番の課題は関係性を育むこと」と述べ、遊びによる関係づくりに力を注げば、子どもたちの関係も大きく変わるとしています。
 かつては、地域社会の中で異年齢の関わりがたっぷりあったため、学校は勉強中心でも問題なかったとしています。しかし、地域社会の関わりの希薄によって、これまでのように 1 日のほとんどを動かない机と人に向かって授業をしていては関係を育むことができません。
 子どもは基本的に遊びの中で関係性を作るものであり、学校がより遊びを大きく取り込まなくてはならないと指摘しています。この点に関しては、体育のあり方について金森氏は著書の中でさらに言及していました。

「教員」の役割

「子どもがピッチャー、大人がキャッチャー」
 先生は子どもを受け止める存在であり、子どもを自分の思い通りにするのではないとしています。そして、優しく、子どもを信じ、子どものあらゆる言葉や行動を受け止めくれる先生がいるからこそ、子どもたちは安心して成長することができます。

学校の先生に外の視点を
 金森氏は非常に重要な指摘をここでしていると私は感じてます。学校の先生というのは、社会経験が少なく、社会の変化がどうなっているのかということを感じることなく従来通りのやり方を踏襲してしまうのだとよく言われます。例え、多少社会経験があったとしても、学校に入ってしまえば同じことが言えると思います。

 そのため、学校の先生というのは、平日遅くまで学校に残り、土日なども学校に居続けるのでのは良くないと指摘しています。私はこれは非常に重要な指摘だと強く思います。
 学校の先生という自覚は大切かもしれません。しかし、社会人として学校の外の世界がどうなっているのかを見る視点が不足すると、現実社会に生きていることにはならないとしています。
 そのため、先生になってからも、社会で働いている人との接点を設けることで子どもたちへの教育の考え方も変わると考えられるのです。

 先生も生徒も「学ぶ」ことについて深く考えることなく、ただ受け身の姿勢で学びを消費してしまうのは、未来の社会に大きな影響をもたらします。

 学校にとっての当たり前を見つめ直し、先生も子どもも、そして社会を構成する人々がそれぞれの幸福を感じて暮らせる社会に変わっていってほしいと切に願います。
 私も忙殺される学校現場の中にいたのではなかなか気づくことができない視点でした。
 オランダの人々を見て、いろんな本や人に出会って少しずつ実感できたことでもあるので、これが教育に関わる人の役に立てたのなら幸いです。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

<参考文献>
・金森俊朗『子どもの力は学び合って育つ』(角川oneテーマ21、2007)
・金森俊朗、辻直人『学び合う教室 金森学級と日本の世界教育遺産 』(角川新書、2017)

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