洗濯物は乾く
洗濯物というのは、おもしろい。いつの間にか乾いている。
僕はめっぽう部屋干し派で、外に干したことは18年に渡る一人暮らしの中で一度もない。
理由はいくつかある。
教員時代は、日が出ているときに家に帰ることはなかったし、休日もなかった。外に干すという選択肢はなかった。
そもそも冬は雪に閉ざされ、夏もさらっとした青空の期待できない北国に、外に干すという選択肢が取れるのかどうか。
それで長年やってきてしまったのだから、今さら外に干すという選択肢はあまり浮かんでこない。
特に冬場は、洗濯物を干すことで乾燥を緩和するという手段にもなっている。
かといって、エアコンを使っていても洗濯物があっという間に乾くということはなくて、適度に湿気を通す外壁と窓のためか、湿気を貯めやすい衣類の材質か、半日干しても乾いていないことさえある。
でも、ついぞ乾かなかったこともなく、そういえば結局乾かなかった洗濯物はない。
衣類はそれが乾いていることを望まれている。だから、衣類は乾いた状態で安定している素材が使われている。洗濯物は必ず乾くのだ。
文学フリマに行くのも三度目になる。きっかけは友人の出店を知って訪ねたが、一度行ってすっかり励まされた。
文学という趣味は理解がされない。これほど誰もが一度は通るものでありながら、そしてそれが価値があると社会的に認められていながら、おおやけにするのははばかられるようなレジャーはない。
僕にとって文学は息を吸うように自然で、格別好きなものではない。この世からなくなったことがないので困ったことはないし、常に文学に触れていないと気が触れてしまうようなものでもない。
文学男子というわけでもないし、当たり前に好きな作家や好きな作品はあるけれども、取り立てて自己紹介に入れるほどでもない。そんな当たり前の存在で、殊更それを趣味として言うほどでもないものである。
それは国語の教師だからというわけでもなく、仕事が何であろうが文学との距離感は変わらなかったであろう。国語の教師を生業としたことで接する機会があった作品は数知れないが、そうでなくとも出会っていた作品の方が多い。
それでも時に、そんな自分がマイノリティーであると自覚させられる瞬間がある。取り立てて言うほどもないくらい自然にその価値を認めていることに、多くの人が価値を見出していないことに驚くのである。
僕はアイドルにもバンドにもあまり興味がないが、それらに価値があることは知っている。そして、その価値に接する機会があれば嬉しく思うし、それなりに楽しいと感じることができる。
だが、世の中には文学というものの価値からあまりにも大きく隔たっている人が多いことを知る。一年の間に、ひと作品も本に触れない人がいることを想像すらできなかった。
僕の以前の同僚の一人がそんな人間で、それを知ったとき心から驚いた。この世に生を受けて三十年以上経っていたのに、初めて知ったのだ。
そのくらいに自然に、僕は学校教育から社会人にかけて、本と接してきた。文学が傍らにあった。
そんな僕にとって、この世界はけっこうな恐怖であった。
それでも、この世界に僕はたった一人というわけではなく、僕と同じように当たり前に本のある世界で生きている人もいることは知っていた。ただ、たまに怖くなるのだ。もしかしたら、僕は一人なのではないかと。特別な、特殊な存在なのではないかと。
そんな恐怖を緩和してくれたのが、文学フリマの存在だった。
そこには、商業的に求められているかどうかとか、どんな経済的な価値があるかとか関係なしに、思いおもいの作品があった。
彼らは本の価値を知っている。もちろん誰かの目に留まって、ZINEが売れたら嬉しいだろう。
だが、それ以前に、その本を作らざるを得なかった衝動があるのだ。その本をこの世に生み出すことの価値を信じていて、それが他者からどのように価値づけられようとも、それを生み出すべきだと思っているのだ。
それは当然である。この世界に生まれなければ良かった本などない。誰かにとって何気なく生み出した本でも、それが誰かの命を救い、世界を変えることすらあるのだ。
世界は単純な数の論理では動いていない。とても複雑で予測不可能な動きの中で、本はその真価を発揮してきた。
我々はシェイクスピアや源氏物語がどのように世界を変えて来たかを容易に想像することができる。
多くの古典と呼ばれる作品だけでも、それがどれほど広く、どれほど先の時代にまで影響を与えてきたか。そして名前も残らぬ幾多の文学が反応しあって、今の僕たちの世界はつくられてきたのである。
だから、本を作る人々は知っているのだ。今自分が本を生み出すことの絶対的な価値を。それはこの世界にとって善きものであり、生み出すべきものであると。
洗濯物は、いつのまにか乾いているのである。それは乾くべきだからだ。それは洗った時からすでに自明のことである。予測可能な未来である。
本を生み出すこともまた、それは必然であり、自明のことである。その文学は書かれるべきだから書かれ、本になるべきだから成った。
文学を愛する者の一人として、時にその文学への信仰を疑ってしまうこともある。その頼りなさに心細くなることもある。
それでも、それが考察も及ばないほど自明のことで、愛すべき人類の営みであることを直観することによって、僕たちはまた本を作っていけるのだ。