君の名とマネジメント
そういえば、すっかり映画館に行ってないなあ、と、すずめの戸締りの予告を観ながら思いました。「君の名は。」から、日本のアニメが変わったなあと思った記憶があります。僕はあのとき、けっこう驚いたんです。学生達がみんな、何度も何度も観に行ってたんですね。ラッドウィンプスの影響もあって、普段アニメや映画を観ない層が、映画館に押し寄せた。それも、何度も何度も。普段アニメや映画を観ない層が、やれ最高のアニメだの、いい映画だの、感動したのだの言っていると、なんとなく他のアニメや映画を馬鹿にされたようにも感じて、なんか嫌な感じがしたんですね。しまいには、一度観ただけでは意味がわからなかったという層もいるということを発見してしまい、こんなん開始数分でわかるやろと、その上でこそ楽しむもんだろ、と不可解に思ったもんです。それは言い過ぎにしても、少なくとも一度観ただけでは内容が本気で理解できない層がいたことには本当に驚いた。また同時に、「完璧に理解できなければならない」と考える層もいることに気づいたんです。このあたりから、日本のアニメや映画の在り方が変わってきたように思います。つまり、「完璧に理解できる」という楽しみ方が跋扈するようになっていった。言い方を変えれば、「アニメや映画は完璧に理解できなければならない」というスタンスが成り立ってしまった。そしてそれが、主流になってしまった。あんなん、細かい所はどうでもいいんですよ。なんで二人が入れ替わったとか、どうしていろんな問題が解決したかとか、二人はどうなっていくかなんて、ぼかしておくというか、放っておくというか、どうでもいいものとして流したらいい。もちろん、それを考察するのもまた自由です。ただ、考察なんてしないで、そのまま楽しめばいいんもんでしょう。ところが、そこに答えを求めるのもまた視聴者の在り方だった。一方では「理解できない」という層、一方には「完璧に理解しなければならない」という層。これらは、表裏一体だったんですね。そのころは、ある種国語科教育の敗北を感じていた。映像作品の読解力を育成出来ていないということ。それが一つの関心事でした。ところが、ことは「君の名は。」ではとどまらなかった。それ以降、多くのアニメや映画が「完璧に理解できる」ものに寄っていったように思います。そのなれの果てが、シン・エヴァンゲリオンです。考察チュウのメッカであったエヴァでさえ、「完璧に理解できる」ものになってしまったのです。これは、かなりショッキングなことでした。劇場で観ながら、最初の20分で観るのを中断しようか本気で悩んだほどでした。そんな「君の名は。」ですが、久しぶりに(というか多分2、3度目)に観た感想としては、少しは素直に観られるようになっていました。当時も、特に震災の影響を感じたものですが、改めて自然災害を思いました。「すずめの戸締り」も、冒頭10分ですでにその匂いがしましたね。今回はそれに加えて、東京の情景の理解が加わったのも印象的です。僕自身が、東京に住んだことによって、ずいぶんと印象が変わりました。かといって、実感を持って感じられたかというとそうでもなくて、背後にあった「新宿」「代々木」といった場所の情報や、その街の空気感を連想できたことでしょうか。これは最初に観たときと変わらないことですが、とてもいい映画だとは思っています。それは、今回の感想として変わっていません。そもそも新海誠は好きですし、文学的なところもありますし、どこか共感できる部分もあります。だからこそ、「君の名は。」に群がった人達に、嫌悪を感じた部分はあるでしょうね。
英語を勉強し始めました。通算何度目の戦いでしょうか。いずれも、3日ともたず断念しています。案の定、二日目にして既に断念しかけています。それがわかっているからこそ、英語のテキストや書籍は買うまいと心に決めているのに、年に数回買ってしまいます。今回も、音読用のテキストを買ってしまいました。なんとなく、音読したくなったからです。正確には、素読をしたくなった。意味も発音も気にせず、ただただ愚直に素読したくなった。それも、帰りの駅の構内で、衝動買いしました。たぶん、数か月、もしくは数日後には、ブックオフに並ぶことでしょう。これまで何十冊も買っては処分してきた英語の学習書。総額はたぶん、管楽器を買えるくらい。トランペットは買えるけど、テューバは買えないくらい。多分。
なんとなく心がざわつくときのために、なんとなく求人アプリをいくつか追加でダウンロードしてみました。基本的にindeedしか使っていないのですが、それだけではすぐにチェックを終えてしまうので、他もダウンロードしてみました。そうしたら、コンセプトバーの求人が出るは出るは。設定を時給1500円以上にすると、もはやカウンターレディの求人しか出てきません。それを排除する手段が見当たらなくて、全部消しました。あれだけもらえるなら、そりゃあ応募しますよね。それに引き換え、他の仕事の時給の低さよ。これが日本か。
思えば、学校も塾も会社も、マネジメントって難しいんだな、と思います。最近思っているのが、経営者やその取り巻きは、意外に考えてるし、勉強してるし、頑張っているということです。彼らは、それなりにマネジメントを学び、ビジネスを学び、実践し、努力しているんじゃないか、と思うようになりました。これまでは理解できなかったのですが、やっとそのへんがわかってきた。これはなんて恐ろしいことなんだと思うんですよ。だって、てっきり、よく考えていなくて、勉強もしてなくて、頑張ってもいないから、こんなに現場が困っている、経営もうまくいっていないと思っていたから。そうでないなら、どうすればいいのか。けっこう考えてて、勉強もして、頑張ってるのに、うまくいってないことって、どうすればいいんでしょうね。僕は、うまくいっていなければ、啓蒙すればなんとかなると思っていたんです。やっていないだけで、やればできるんだと。改善することも可能なんじゃないかと。でも、違うんじゃないかと思えてきました。どうも彼らは、よく学び、頑張っているようなのです。それで、現場が困り、離職率が上がり、顧客にしわ寄せが来て、有能な人材に負担が集中するのです。これは困ったぞ、と。もちろん、考えが浅いとか、理解が足りないとか、誤解しているとか、本人の資質に原因をたどることもできるでしょう。そうだとしたら、どうしようもないのではないか。彼らの考えを深くするとか、理解を深めるとか、誤解を解消するって、めちゃくちゃ大変なことだし、よほどのことがなければ、実現は難しいでしょう。学校教育は、そんな状況には効果的です。教師という存在が、それを促すし、生徒もまたそれを期待するからです。いろんな教師がいますし、いろんな実態はあるものの、概ね生徒を啓蒙したいという欲求や使命感がある教師は多いでしょう。もちろんそれがプラスに働くことばかりではないことは自明のことですが、それでもなお、生徒自身の変化を促すという点だけは、共通しているでしょう。だから、学校教育では、とにかく生徒は変化する機会を多く得られる。それが良いか悪いかは判断できない。ただ少なくとも、変化しやすい発達段階において、変化を促すような環境を与えられているはずです。しかし、大人になると、そのような場はほとんどない。変化を促すような環境に身をおくことはほとんどないでしょう。また、自分自身も変化を望まなくなってしまう。よほど変化を求めていたり、変化を好む人でなければ、基本的には変化は訪れないと言ってもいいでしょう。だから、もちろん、学んだり、頑張ったりすることはできても、その根本にある部分は変えにくいように感じています。ソフトやアプリは入れ替え可能でも、OSは仕様変更できないのです。そう考えたら、既存のOSとその上に乗っかったソフトやアプリを適切に用いて運営した結果、現場や顧客が困ってしまっている状況を何とかするのは、ちょっと無理なんじゃないだろうか。そんなことを考えていました。