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ぜんっぜん不調

もう、ぜんっぜん、不調。おそらく花粉や寒暖の差によるアレルギー症状に加え、どうにも精神も不調。ちゃんと、具合がわるく、波がある。常に、やや低め。

うつ病の病歴も長いので、不調との付き合い方はなんとなく定型化しているんだけれども、やっぱり辛いものは辛いのですよ。腹痛だって、頭痛だって、歯痛だって、対処がわかってても辛いじゃんね。そして、その辛さや感じ方は人によって千差万別。

うつ病の難しいところは、病識を持ちづらいこと。今の自分の状況が病気によるものなのか、他の要因によるものなのかなんて、判別できない。そもそも、そのへんを切り分けることなんか、おそらくできない。とにかく、辛い状況に対して、試しにお薬を処方したら、うまくいけば緩和できるかもしれない、くらいの精度でいくしかない。もちろん、薬物療法が最も効果的だとは思うし、必ず医療機関で治療を受けるべきだと思う。ただ、そんな簡単にはいかないもんだと思っておいた方がいいんじゃないかということだ。ましてや、人に悩みを打ち明けるとか、カウンセリングを受けるとか、気分転換するとか、そういったことも、そこまで力のあるものではない。いろいろ試せば、うまくいくこともある。でも、よけいこじらせることもある。そこらへんを試行錯誤しながら、長期戦で調整していくのが、現代の精神医療なんだと思う。

さしあたりは、ゆっくり休むのだけは推奨される。けれども、それは必ずしも睡眠を意味しない。僕の場合は、過眠が強く出るので、寝すぎて不調を感じることも多い。うつ病の主な症状の一つに睡眠障害があるけれども、それは不眠や早朝覚醒だけではない。過眠もまた、睡眠障害の一つである。もちろん、睡眠によって休める部分もあるけれども、何もできないもどかしさや、倦怠感、不快な夢といったものがあることもある。かといって、起きていてもイライラしたり、落ち着かなかったりするので、結局疲れて寝てしまう。そして、一度寝ると、なかなか起き上がれなくなってしまう。どうしても外せない用事があれば、そのために起きることはできる。けれど、どうしてもではないもの、キャンセルすることができることであれば、大抵は睡眠が勝ってしまう。そんなのみんなそうじゃないって言われそうだけれども、そう、みんなそうなの。みんなそうだけど、その度合いや感じ方が違うの。または、その生活への影響力が違うの。たぶん。そのへんで困ってなければ、たぶんそれは病気とは判断されないはずだから。困っている、不快な思いをしている。だから、それを人は病気に分類したの。

少しでも調子のいいときに、動いている。動けるときに動いていかないと、いつ動けるかわからないから。もしかしたら、二度とそんなことできないんじゃないかと、びくびくしながら動いてる。いつ死んでもおかしくないくらいの覚悟で生きている。だから、先の予定を立てることが苦手だ。一か月先の予定なんて、果たして実行できるのか不安でしかない。行きたいコンサートや演奏会もたくさんあるけれども、それも行けるんだろうかと心配になってしまう。例え行けたとしても、こちらのコンディションが良くなければ、集中して聴くことができない。もしかしたら極上の音楽なのかもしれないけれど、それをそのまま受け取ることができない。心も身体もとても繊細になっているから、少しの不快も増幅されてしまう。また、仮に感動的なものであっても、それはそれで心に負担になってしまう。だから、イベントはなるべく当日に行くかどうかを決めている。その日の調子を見極めて、生きている。

僕の場合よく現れる症状に、貧困妄想がある。うつ病の症状に妄想があって、代表的なのが、貧困妄想、心気妄想、罪業妄想だ。昔は自分が病気になったのではないかと異常に心配してしまう心気妄想、自分が何かとてつもない犯罪を犯してしまったのではないかと異常に心配してしまう罪業妄想もよく出ていた。これらは、最近はあまりない。しかし、貧困妄想は、月に数回は訪れる。実際貧困、というか、お金は十分にはないけれど、すぐに困る状態ではない。実家からも支援を受けられている。けれど、その実態にも関わらず自分が貧困状態にあると感じ、異常に心配してしまうのが、貧困妄想だ。これは、実際の経済状況とは別の問題だ。経済状況を心配することはあるけれども、その心配の度合いがどこか不合理に、とにかく心情的に不安感に満たされてしまう。実際の経済問題と、貧困妄想の合わせ技は、とても、危険だ。これは、心身の調子の回復に従って、ちゃんとなくなっていく。経済状況が好転したわけではない。

うつ病と向き合う上で座右の銘になっているのが、「やりすごす」だ。もう、とにかく、基本的にはこれしかない。やりすごすしかないのだ。具体的な手立てができる時であれば、それをやってみてもいい。でも、それが効果を発揮するかどうかはわからない。もがいてもどうしようもないことが多い。逆に、もがくことで環境が悪化したり、心身が疲弊してしまうことだってある。だから、基本的には、とにかくやりすごすしかないのだ。

それに加えて、夜と朝の息苦しさと若干の咳である。おそらく、アレルギーによるものだということで、こちらも治療を受けている。それでも、症状が出てしまう時期がある。それが、約二カ月ぶりに来ている。来なくていいよ。うつ病による症状なのか、過眠によるものなのか、アレルギーによるものなのか、それとも他の何か原因があるのか、その判別はとてもできない。とにかく、それらの可能性を考えて薬や休養で対処しつつ、やりすごすしかない。これもまた、とても不快である。なんもできない。したくない。

そんな中、今日の朝はなんとなく調子が良かったので、断捨離をした。ある程度苦しんだ後に、少し小康状態があると、妙に断捨離したくなる。たまった書類や書籍、着なくなった服を整理し、ゴミに出したり売ったりする。今日は数年続けていたサブスクを一気に整理することもできた。全く読んでいなかった電子雑誌の定期購読を続けていたことに気づいた。たぶん、三年くらいは購読していたんじゃないだろうか。保存していた古めの食料もなるべく消費した。僕はとにかくモノを減らしたい。いつ死んでもいいように、いつ家がつぶれてもいいように、いつ手放してもいいようにしておきたい。できるだけ執着を減らしたい。気に掛けるものを一つでも少なくしたい。今あるものにしばられた生き方をしたくない。だから、断捨離をすると、心も少し軽くなる。実際には、少し心が軽くなっているときに断捨離しているだけかもしれないけれど。

やりたいこと、やらなければならないことができないもどかしさを抱えながらも、とにかく生きることしかできない。とにかく、生きるために、いろんなことをしている。表現活動はあがきでもありつつ、少し浮上したときに少しでも現世にツメ跡を残そうとする本能でもある。長い水面下での混沌とした闘いから、偶然にも浮上した一瞬の隙をついて、僕は、叫んでいる。

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吉村ジョナサン(作家)
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