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国語をどうやって教えるのか

国語をどうやって教えるのか、というのは、とても大変な問いである。大変さの一つには、「国語は何を教えるのか」という問いをはらむことがある。

国語で教えることとして、漢字の読み書きや言葉の意味、文法といった局所的ことや、「評論文を読むポイント」「物語を読むポイント」といった文章を読むにあたっての何らかの技術を教えることはありそうだ。

ただ、これらは補助的な事項であって、「国語」の範疇のごくごく狭い範囲だと思う。むしろそれ以外の大部分が「国語」なのだと思うが、果たしてそれは何だろうか。

それは、学習指導要領にある程度規定されてはいる。大雑把に分類すると、「読む力」「書く力」「話す力・聞く力」「言語事項」があり、その詳細や位置づけは改定ごとに変わる。

これらが「国語で教えること」というのは題目としてはあるけれど、肌感としては、それだけではあるまい。研究授業などでお題目として、ある程度の分類、整理のために学習指導要領に則って授業計画を立てることはあるけれども、それは日々の授業にとっては例外的な状況だろう。だから、これらが「国語で教えること」の実態を表しているとは言えないような気がしている。

では、何を教えていると感じているのか。端的に言えば、「文章を読むこと」であろう。もしくは、「文章を読む力」を身につけると言ったほうが適切なような気がする。なぜなら、「こうやって読むんだよ」と教えているのではなく、結果的に、「文章を読む力」を身につけることが中心にある気がするからだ。

「書く力」「話す力・聞く力」「言語事項」」ももちろん大事な要素だが、これらに特化した授業は少数派であるのが実態だろう。「国語」におけるバランスとしては、「読む力」が7割、その他が3割ということが多いんじゃないかと思う。

それでは、どのようにして「文章を読む力」を身につけさせるのか。

話は変わるが、友人と西洋古典の本を読むことについて話したことがある。友人は西洋哲学などの西洋古典の本を濫読しているのだけれど、内容がさっぱり理解できないのだそうだ。注釈はあるけれども、二言三言。忍耐強く読み進めるけれども、楽しみは見いだせない様子。そのような読み方にも価値はあるとは思いつつも、確かにもう少し内容がわかればいいよなぁと。

このような書物を理解するには、誰かから解説を受けながら、一緒に読んでいくのが一番である。一つの文を理解するにも、単語の意味はもちろんのこと、その背景、文脈を踏まえて読まなければ解釈はできない。また、それらが適切に捉えられたとしても、自分が考えたこともないことを読み取り理解するのは、とても難しいことだ。だから、それらの解説を受けながら読むのが一番なのである。

それが叶わない場合の二番目の方法としては、誰かと一緒に読み味わうことである。その誰かが適切な知識を持ち合わせていなくとも、ある程度の読解力を有しているならば、一緒に文章を吟味することができる。古典に向き合うというのは負担の大きい行動だから、誰かと一緒に読むというだけでも、読むことの助けになる。

誰の助けも借りられないとしたら、なるべく注釈の詳しい本を使って読むという方法を勧めたい。注釈が詳しければ、その注釈を手がかりに理解できる部分も多いだろう。

以上のことを古典以外の文章にも置き換えられると思う。ある文章を一人でどの程度読み深められるかには個人差がある。それを助けるために、その作品について、より適切に読み深められる教師による解説を踏まえながら一緒に読んだり、同水準の理解を持つ仲間と一緒に読んだりする活動が、国語の主な学習活動である。

とすれば、そこで教師が担う役割は、文章の解説をしながら一緒に読むことと、仲間同士で文章を読む場をファシリテーションすることであろう。

となれば、「国語をどうやって教えるのか」ということは、「どのようにして一緒に読むのか」ということになる。これは、僕の実感としても合致するものである。

では、どのようにして一緒に読むのか。まずは、声に出して読むということができそうだ。ときには、読み方がわからない部分もあるだろう。ときには、意味の切れ目がわからない部分もあるだろう。作品によっては、声色や抑揚をどう適切に表現すべきか吟味することもできよう。それを互いに確かめながら、互いに探り探り、作品を音声として味わってみる。

次に、解釈をしてみる。その一文が示す内容は、具体的にはどのような事例があるのか。逆に、事例からどのようなことが考えられるのか。

ときには、表現を吟味することもできる。なぜこのような表記や表現にしたのか。どうしてこのような台詞にしたのか。どうしてこのような構成にしたのか。

これらの解釈は、慣れてくれば自由に発想することができる。読んでいくだけでも、自分の中に疑問や引っ掛かりが現れる。

それが難しい場合には、教師が疑問を提案するということもできる。これが、「発問」という問いである。つまり教師は、自発的な疑問とそれに従って得られる解釈がなされない状況において、「発問」によってそれを促すのだ。

この「発問」がいかに豊かな解釈を導くかは、そもそも教師がいかに豊かな解釈を導けるのかにかかっている。

以上をまとめると、「どのようにして一緒に読むのか」について、「一緒に音読する」と「一緒に解釈する」とがあり、解釈を促すために「発問」という技術を用いることがあるのだといえる。

だから、「国語をどうやって教えるのか」という問いへの答えも、「一緒に音読し、一緒に解釈しながら、時には発問をして教える(文章を読む力を身につけさせる)」ということになる。

ということは、国語を教えるために必要な技術として、「一緒に音読する技術」と「一緒に解釈する技術」、さらにそれを助けるための「発問の技術」が重要である。

これらが主な技術であり、そのオプションとして、漢字の読み書きや言葉の意味、文法、文章の読み方を教えるための技術があるのだと思う。

しかしながら、国語を教えるために必要な技術のうち、大事であるはずの「一緒に読む技術」は非常に専門的で習得も難しく、テキストで学ぶことも難しいため、一般には知られていない。または、その効用が誤解され、軽視されてしまうことすらある。

一方で、オプションとしての技術は、一般的で習得が容易であり、テキストで学ぶことも容易であるので、よく知られ、非専門家に用いられることが多い。指導経験が少ない国語科教師においても用いられることが多い技術である。

しかし、「国語」で求められるもの、特に学習指導要領の国語科で求められるものを実現するには、「一緒に読む技術」が不可欠なのである。この技術を高めうる国語科教師は得難いものであるし、他教科とも大きく異なる資質の必要な職業なのである。


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