僕は退屈して眠り続けるしかない
どうにも胃腸の調子が良くない気がしている。暴飲暴食しているわけではないと思うのだが、なんとなく食べ過ぎの症状がすぐに出る。特に胃の調子が良くない気がしている。これくらい食べても平気だろうという食べ方であっても、なんとなくもたれる。満腹感が続く。胃部不快感がある。弱っているのだろうか。確かに、良好な食生活、生活習慣とは言えないけれど、これくらい、今までもあったではないか。三十八になったら、急に衰えたりするのだろうか。季節性のものだろうか。なんとなく、不安になってしまう。さしあたり漢方とビオフェルミンを飲んでみているけれど、果たしてどうなるか。ずっとこのままなのは嫌だなあ。三日前くらいからこの調子で、食事を少な目にして様子は見ているのだけれど、さっきはついついカフェでおかゆを食べたあとにスパゲティーを追加してしまった。ほら見たことか。胃がもたれている。
昨日からのスクーリングを終えた。前回程ではないにせよ、まあまあのクセのある先生。三分の一くらいは専門的な内容だったので、得られるものはあった。けれど、三分の二はまあまあ辛かった。疲れた。やはり生徒として授業を受ける経験には学びがある。こういうのは辛いよな、という体験をできる点ではありがたい。でも、何かとストレスがあったのも事実。とりあえず、誰かや何かを批判する内容や、授業の本筋には関係のない内容が、結構ストレスになるのだと思った。講義というのは、必要な部分をわかりやすく伝えることが大事なのは言うまでもないが、そのために例え話や比喩、一見関係のない話題をさしはさむことがある。僕自身もそういった手法は用いてきたし、そこに教師の教科書にはない存在意義があると思っている部分もある。ただ、あくまで本題のための話であって、そこから離れすぎると主題が見えづらくなり、そのことがストレスになってしまう。前回に比べれば減ったものの、やや前時代的な考え方や、圧の強い姿勢があったこともあり、すっかり疲れてしまった。雑談的な補足も少し不快に感じるものが度々あった。疲れる。結局は人間性なのだと思うけれど、人間的にクセのある人の講演会であれば、好みに合うのであれば聴いてみることもあるかもしれない。けれど、講義については、人間的にクセのあるのは嫌かもしれない。そんなふうに感じてしまう授業だった。
仕事の幅を広げるために動いている。改めて自分の職務経歴書を推敲している。いろんなことをやってきたと思う一方、これから何ができるんだろうとも思う。十三年間は驚くほど多くの仕事を、ものすごい密度でやってきたんだと思った。あれ以上続けていたら、まともな状態でいられるわけではなかったのだ。久しぶりに過去のデータを引っ張り出してきて、本当にそう思った。あのころと比べたら、今の生活のゆとりが一層際立つ。それでもなお、僕の今の生活は十分ではないと感じる。もっと時間的にも経済的にもゆとりは欲しいし、着実に歩いていきたいと思っている。それにしても、健康だ。あのころと比べたらウソみたいに楽なはずなのに、疲労は激しい。消耗が激しい。体調は安定しない。もどかしい。加齢によるものか。環境によるものか。気質によるものか。病気によるものか。何だかわからないけれど、ともかくもどかしさがたまらない。新しい仕事への挑戦と切り替えが、この状況を変えてくれるだろうか。不安は尽きない。
ちょっとグダグダしたら、ちょっと気分が落ち着いた。それにしても最近、NFTを購入したいという怪しげなDMが来る。ものすごい来る。相手は結構な数のフォロワーを従えた方々で、一方的に怪しいと言うことはできないのかもしれないけれど、どう考えても怪しい。NFTを数千ドルから数万ドルで買いたいという。それはどう考えても怪しいだろう。というか、まずはフォローしてくれ。「ごめんね、まだNFTには対応してないんだ」と返事をすると、連絡がぱたりと消えることもあるが、食い下がられることもある。たとえ何らかの思惑があるにせよ、どんな悪用の仕方があるのかとも思うのだが、いずれにせよNFTには対応していないのだから仕方がない。一時期対応しようと勉強したし、ある程度準備はした。イーサリアムの用意くらいまではした。けれど、NFTにするにあたってガス代がかかりそうだったので、とりあえずは見送った。別に急ぐものでもない。金もない。データにするにも、もう少しいい写真を用意したい。そんなこんなで、まあまあ面倒である。オープンシーではなくとも、コインチェックがあるかなと思ったけれど、ただでさえ小さい日本の市場というのもあまり利がないので、こちらも見送っている。もうちょい時期をみようかなと思っている。現段階ではあまりメリットを感じられない。インターフェースも使いにくい。ただ、これまでの作品集をまとめたいとは思っているので、その流れで参入しようかとも考えている。それほどためらうようなものでないとも思うからだ。それにしたって、まだまだ面倒なことが多いので、すぐに、というわけにはいかないだろうけれども。いずれにせよ、インスタのフォローもしないような輩に買われるのも嫌だなあとは思う。そもそも、美術作品を投資商品のごとくに扱うのは気にくわない。美術作品に経済的な価値がつけられたとたんに、それは経済的な指標でしか見られなくなってしまう。それはなんか嫌だ。そのあたりが、美術ビジネスのすごいところ。芸術的な指標も残したまま、経済的な価値とのバランスを取ってくれる。できれば、そういった文脈で自分の作品は流通させたい。そういった意味では、オープンシーは適さないような気もしている。ファインアートに特化したもので、使いやすいものが見つかったら、それも考えようかな。
相変わらず、何もかもが面倒になることがある。それは決して、やることが多いからではない。やっていることが全部むなしく感じられて、放り投げたくなる。もちろん、こつこつこつこつ全ては続けている。そして、まだまだまだまだ結果が出るものではない。ただひたすら、種まきを続けている。水をあげつづけている。ふとしたときに、それがむなしくなる。何度も、何度も。それでも、その時間はずっと続くわけではないから、一時やりすごせば去っていく。やりすごすことの多い日々だ。本当に。
統合失調症について、もっと勉強したいと思った。大学で精神障害について勉強していて、特に統合失調症について、もっと知りたいと思った。他の精神障害と比べて、よく知らないまま来てしまったな、と思った。特に、陰性症状だけの人も多いのだと知り、これは本当に見えてなかったのだと思った。陰性症状は、人に直接の恐怖や違和感を抱かせることが少ないけれど、それだけその人の生きづらさもまた、見えにくい。何ができるか以前に、単純にもっと知りたいと思った。
久しぶりにポッドキャストを更新した。前回までで文学史の概略編が終わって、これからは原文に親しめるような内容にしていきたいと思っていた。さしあたり、比較的に著作権的に問題がなさそうな共通テストの過去問題を題材に扱った。授業でも何回か扱っているから、内容的には問題ないけれど、ほんのり具合が良くない中だったので、序盤は少し停滞があった。スマートフォンに外付けマイクをつけて録音しているのだけれど、試しにマイク一体型のヘッドフォンを付けてやってみようとしたら、うまくいかずに断念。結局は前回同様の装備で。暖房をつけると雑音が多くなるので、少しずつ冷えていく環境下での録音。後半になるに従ってスムーズにはなったものの、なんとかかんとかやり遂げた感じ。それでも、録音してしまいたい気分だった。何かをすることで落ち着く気持ちがある。
さっきまではカフェでお茶とおかゆとスパゲティーをいただいていた。マンガが充実しているので、長居前提のお店なのだけれど、二十三時の閉店にはまだ時間がある二十二時頃になったら、急に換気をしだし、しまいには床をほうきで掃き始めた。客は僕だけ。わかる。なんとなく空気は読める。だが、青エクをもう一巻くらいは読ませてくれ。結局、会計を済ませて、出た。言ってくれれば退出するぜ。
相変わらずツイッター依存症なのだけれども、なるべくトレンドを見ないようにしている。トレンドが無駄で自分に微妙にカスタマイズされた気味の悪いつまらないものだとわかっていても、つい気にしてしまう。それでも、一時期から比べるとニュースサイトがトレンドに差し込まれなくなっただけでも、不要な情報に惑わされずに良くなったように思う。知らなくていい事件やいざこざは、知らなくていい。
それにしても、世の中は、本当に狭い社会ばかりでできているものだと思う。僕がゲイ界隈を知って、改めて感じるのは、その狭さだ。ゲイカルチャーは、ものすごく狭い社会の中で、ある種ガラパゴス的に育ってきた文化なのだろうか。なんとなく、文学やアートの世界の有名人とゲイカルチャーが重なるイメージもあったので、どこかで外の世界とのつながりがあるのかと思っていたけれども、思ったよりもずっと閉鎖的なんじゃないかと思えてきた。もちろん、基本的には閉鎖的なものだと捉えるべきだけれども、それにしても、ずっとずっと強固なもの、それもずっとずっと狭いものだという感覚。アートにしても、音楽にしても、その狭さに驚く。アートや音楽は、コミュニティーの境界線をやすやすと越えていく性質があると思っていたけれども、ゲイカルチャーの文脈に置かれると、それがどうにも重くなる。僕はもともとは何がゲイカルチャーの文脈で、何がそうではないのかの区別がつかなかった。アーティスト本人のセクシャリティ―や、コミュニティーなんて気にもしなかった。だから、もっともっと自由なものだと思っていた。しかし、どうやらそれらが意外にある種の重たさを持っているということ。ゲイカルチャーの文脈で語られると本人やコミュニティーが捉えており、結果的にそれらはある種の重たさを抱えているということ。それがなんとなく、わかってきた。僕が最初戸惑ったことに、「かわいい」がある。ゲイカルチャーの中では、「かわいい」にも様々なものがある。それは性的な魅力であるとか、好みであるとか、様々な文脈ではあるのだけれど、そこには個人の価値観や感性というよりも、コミュニティーの合意というものも大きいのだとわかってきたのだ。僕は最初、彼らの使う「かわいい」の意味がわからなかった。僕がそれまでの人生で用いてきた「かわいい」の示す具体的な事象には当てはまらないものがほとんどだった。ここでの「かわいい」は、「イケメン」と言い換えてもいい。つまり、男性の容姿の魅力を褒める言葉としての「かわいい」だ。彼らの言う男性の容姿の魅力がわからなかったと言ってもいい。これは完全に異文化のそれであった。僕が思うに、これらは本人の嗜好による部分もあるものの、結構大きな部分が、その人が属するコミュニティーによってもたらされるものなんじゃないか。少なくとも僕に関しては、彼らの言う「かわいい」に慣れることで、そこに「かわいい」を感じることができるようになっていった。つまり、学習できた。少なくとも、僕は。そしてさらに、個別の差とは別に、コミュニティーによる差があるんじゃないかと思うようになった。ゲイバーでは、タイプの人同士が集まるという性質がある。必ずしもそうではないけれども、太い人が集まる店、細い人が集まる店、若い人が集まる店、年配の人が集まる店、それぞれの「かわいい」がある。ただ、実は逆の部分もあるんじゃないかと思う。その店に出入りする中で、その店の「かわいい」のモノサシに慣れていくのではないか。そのコミュニティー内の合意としての「かわいい」があって、それに基づいて会話が行われ、序列が作られるのではないか。ある店での「かわいい」は、元からそのような容姿を「かわいい」と思っていた人達が集まっただけではなく、その店における「かわいい」に順応していったのではないか。だから、厳密には元々持っていた「かわいい」と大きく変わるとまではいかないまでも、若干そのモノサシをコミュニティーに合わせていくんじゃないか。これは、一般社会においても当然あることだと思う。あるコミュニティーにおける価値観が、自分の価値観と違うことは多くある。けれど、そのコミュニティーの中のモノサシに慣れていくことで、そのモノサシで物事を測ることもできていく。そうしないと、そのコミュニティーの中で話が通じないことがあるからだ。しかしながら、僕自身は、結構そういったコミュニティーのモノサシには敏感だと思う。小さいころから何故か標準語を話し、マンガを愛し、音楽を愛した。その姿勢は、学校や友人はおろか、家族の中でも異端であった。そこに孤独があった一方で、自分は自分だからという頑固さがあった。鈍感だったのかもしれないとも思う。僕は、自分が異端であることに、最近まで気が付かなかった。あまり意識していなかった。どうしてもどかしく感じるのか、話がかみ合わないのか、本気でわからなかった。ようやく最近になって、その生きづらさを自覚したことで、自分の中のもやもやを自覚できた。常に異端意識がある撲としては、ゲイカルチャーからはやっぱり異端だし、ゲイコミュニティーからもやっぱり異端である。どこかおじゃましている感覚はぬぐえない。どこかで、スナフキンに共感している。スナフキンはたぶん、ムーミン谷にいるときにはそのコミュニティーの中の価値観を理解しつつも、そこに共感しきることはないのだろう。寄り添いながらも、その中に浸りきることはない。それは旅人の宿命だ。僕もまた、旅人としての宿命を感じている。生来の旅人は、定住などできない。その地に根を下ろすことはできず、その実を分けてもらえることで、なんとか生きている。だから、ゲイカルチャーにおいても同じで、音楽やアートが、コミュニティーによる価値によって評価され、それはかなり、思っていたよりずっと狭い集団の中でのモノサシで評価される。ただでさえ、音楽やアートは、その中でも価値基準が多様に作られる。いろんな大小のモノサシがあって、本当にごく一部の人によってだけ用いられるモノサシも多い。それが、ゲイコミュニティーの中の、ある店や店のつながりの、ある集団の、ごくごく狭い中で用いられたモノサシと重なって、鑑賞される。そのことに、最近やっと気づいてきた。こういったことは、十数年ゲイコミュニティーに身を置く人達にとっては、当たり前のことなのだと思う。僕自身が身を置く最も大きなハイカルチャーの一つがクラシック音楽だと思うのだけれど、その中ではかなり大きなモノサシが存在する。それにしたって、モノサシとしては限定的なのだけれども、少なくともサブカルチャーや日本文化と比べれば、かなり普遍的に運用できるモノサシだと思う。だから、ついそこに頼ってしまうところがある。しかし、小さなモノサシを日常的に用いる人達にとっては、その小さなモノサシの方がずっと自分達の心地よいものであり、友人達とも共感し、語り合えるものなのである。だから、それを持たない旅人には、手も足も出ないのだ。長年地方に暮らしていて、そんなことはわかっていたはずなのに、東京という極度に細分化されたコミュニティーを形成する都市でそれを想定しきれなかったのは、痛い。だから、結局僕は旅人なのだ。旅人として、普遍的なモノサシを前提としてハイカルチャーを楽しむ場では良いとしても、土地やコミュニティーに根を下ろし、小さなモノサシで親密な関係を楽しむ場では、どうにも居心地が良くない。これは多分、それらのコミュニティーとの深さも長さも未熟であるというだけではない。僕自身の持つ「旅人性」がそうさせるのだろう。それがアートや音楽の世界でも言えることなのだと思う。ゲイカルチャーに対する憧れはあるものの、その中のどこかに根を下ろす勇気はない。とても抵抗感がある。それは、地方暮らしの中で、コミュニティーに属することの抵抗感にも共通する。そもそもゲイカルチャーが異文化過ぎて、未だに戸惑っているという部分も大きい。この戸惑いは薄れていくのだろうか。アートや音楽、学問の世界のコミュニティーもまた、僕には抵抗感がある。何せ、高校時代の打楽器の先生の門下生達と集まったときに、音大に行くのは嫌だと思った人物である。徒弟関係というのもまた、ある種のコミュニティーである。どうもコミュニティーに対する恐れや嫌悪がある。比較的にそれが少ないのは、部活動やサークルだろうか。それも今となっては、思い出の中にしかない。そもそも、僕は言葉の人である。ハイコンテクストな中ではなく、文脈を選ばない場面で、文脈からしっかりと言葉に乗せてコミュニケーションを取ることに慣れている。空気を読むとか、習慣に合わせるとか、その土地や人のしきたりに合わせて丁寧なコミュニケーションを取るよりも、より普遍化した手段によって意思疎通を図りたいと思っている。もちろん、そういった手段が使えない場合も多い。ことゲイコミュニティーは高度にハイコンテクストなコミュニケーションが必要とされる。これはおそらく、その秘匿性によって磨かれてきたものだろう。「会員制」の意味一つでさえ、一般人にはわかるわけがないのだ。学問的な興味はあるけれども、コミュニケーションを取る上ではまどろっこしく感じてしまうことも多い。方言や俚言を研究対象として扱うおもしろさと、それを運用しないとコミュニケーションできないことは違う。よそ者としては、しゃらくせえ、まどろっこしいと感じてしまうことがとても多い。これはもう、ゲイカルチャーに向いていないと言ってしまえばそれまでなのだけれど、それはそれで寂しいわけでして。とはいえ、少なくとも、現状観測しうるゲイカルチャー、ゲイコミュニティーにおいて、根を下ろせそうなものは見当たらず、さしあたり旅人として様子を見ているところ。これはまた、アートや音楽についても言えること。ある特定のカルチャーやコミュニティーに身を置く、根を下ろすこと、根を下ろさないまでも腰を下ろすくらいはしてみたい。そんな思いでいる。根無し草とはいうものの、根を下ろすほどにはまだまだ世界を知らなすぎるとも思う。ちなみにこれは、対個人にも言えることで。ある人に根を下ろすこと、根を下ろさないまでも腰を下ろすこと。それくらいには関係を定着させたい相手。そんな相手もまた、見つけられないでいる。そんな存在に憧れながらも、そんな存在を作るためのプロセスを厭い、ここでもまた旅人を選ぶ。これは、生来の旅人だからか。それとも、腰を下ろすことさえ抵抗する心情があるからなのか。
閑話休題。飢えている。僕の良くない癖だ。飽きている。毎日の生活に。安定は僕にとってや最大の毒で、心を不安にし、生きることをつまらなくしている。仕事にせよ、表現活動にせよ、そう、飽きてきている。もっと刺激的でドラスティックな何か、抜本的で画期的なアイディアに飢えている。時としてそれに本が答えてくれることがある。ごく稀に人が応えてくれることがある。けれども、いずれにしても稀有なことだ。僕は、僕自身に飽き、僕の環境に飽き、撲の未来に飽きようとしている。飽きる未来程苦しいものはない。安定した毎日がただ続く毎日は、監獄にいるのと何が違うのだろう。適度な自由とありきたりな言葉に支配されて、偽りの青天井の下で、細々と一日を繰り返す。そんな不安な日々には耐えられない。画期的な希望、変動の予感、変質の兆しにこそ、生きる甲斐があるというものだ。それなのに、日々に疲れ、行動や判断を鈍くし、日に日に老いて、微々たる変化と成長を持って生きる。その苦しみに耐えることの負担は、何によって緩和されるのか。それはもう、ただ眠りによってでしかない。だから、僕は、ただ、眠る。退屈な毎日をやりすごし、いつか、画期的で抜本的な出来事が起きるときを信じて。それでも、そんな日が訪れるのか。良い本に恵まれ、良い友に恵まれる日は来るのか。それが毎日とまではいかなくとも、せめてひと月に一回、できれば一週間に一回はそんな瞬間が来てもらえないだろうか。僕はひどく焦る。僕がいつか、飽きることに飽ききって、自分をなげうってしまうのではないかと。つまらない。何もかもがつまらない。それはセロトニンが不足しているだけなのだろうか。そういえば、薬を飲まなければ。薬くらいしか確かな成果の得られているものがないというのも問題である。薬だけは確かに僕を助けてくれる。そして、時として医者や歯医者も僕を助けてくれる。だが、それは急性期においてである。緩慢とした回復期において、その退屈を紛らわしてくれるのは、本か、仕事か、学問か、芸術か。そのどれもが、少しずつは僕の毎日を進めてはくれる。けれど、抜本的にドラスティックには解決してはくれない。確かなるひらめきによって、世界を変えてはくれない。僕はもっと、新しい世界を見たいのだ。ジョナサンのように、ただひたすらに、研究し、飛び続ける。そして次の世界へ、次の世界へと進んでいきたい。ただそうあることこそが、自分の心を癒してくれる。退屈に、魚をとり、群れで飛び、繁殖することに何の価値があるのか。彼こそは我が模範であり、一つのケーススタディーである。
そういえば、詩集が全く進まない。それは、詩を全く作っていないからである。詩を作ろうと思えば、勢いでどんどん作るのだけれど、それはそれで疲れるのだ。詩はその時の感情的なエネルギー、思考的なエネルギーをそのまま言葉のリズムに乗せる。どうにも勘違いしている輩もいるが、表現とは訓練によって得られるものではない。もちろん、訓練によって得られるものもある。だが、それは表現ではない。それは手の動かし方や目の閉じ方を身に着けるようなものだ。それ自体が表現を生むのではない。だから、それはその訓練の多少によって評価されるものではましてないし、年齢や経験によってなされるものでもない。赤子の手の動き一つだって、喃語の響き一つだって、表現である。そこに指向の違いはあっても、表現の良し悪しをそこに求めるのは愚問である。なのにも関わらず、その表現の評価の根拠を、年齢や訓練の多少で図るなどばかげている。果たして、多くの詩の修辞を学び、詩作に励み、長く生きることが、良い表現の根拠になるだろうか。良い表現がそのような背景を持つことはあっても、そのような背景が良い表現をもたらすわけではない。表現は過程ではない。過程を表現とすることはあるけれども、それは過程という表現であって、それはそれ自体を表現とするだけの話である。だから、その作者の背景、ましてやその作品の背景を持ってその作品の評価とするのは、基本的にはばかげている。時としては便宜上そうせざるをえない場合はある。しかし、それは大抵は経済の論理とか、特定のコミュニティーにおける慣習によるものである。表現がそういったものに真の価値を見出すのは、ばかげている。なぜそこに疑問を持たないのだろう。そういった輩には、その背景となるような経験値を言って聞かせるしかない。学歴がなければ、そのものの賢さを測ることができないのだろうか。ばかげている。学歴があっても愚かな者は多い。学歴がなくても賢い者は多い。そんなわかりきった事実を受け入れておきながら、なぜそれを一般化できないのか。全てがそうではないのはもちろんである。だが、そんな些末なことを論じているのではない。相関関係のないものによって評価しようとする姿勢にはうんざりしてしまう。自分のわからないものを評価できないからと言って、気にすることはない。評価しなければよいだけだ。現代芸術の類は、コンセプチュアルなものを除いては、基本的には何も考えず、評価もしなければいい。ただ、それを受容し、楽しめばいいのだ。楽しむというのは、決して喜怒哀楽のことではない。怒りを楽しんだり、哀しみを楽しんだりだってする。新しく出会ったものに対しての礼儀と言ってもいいかもしれない。それはいささか、教義的だろうか。
乗りかかった船で、何となく一万字くらい書いてみようかと思った。おかげで、結構すっきりしてきた。まあまあ話せる機会があれば、いろいろな人と、いろいろなことを話してはいる。それでも語られなかった言葉が、あまりにも多すぎる。それらはいつのまにか僕の血管を詰まらせ、血を滞らせる。こうして無理やりにでも引きはがさなければ、供養してやることもできなかった。まだだ。たぶん、まだまだ、アウトプットの量が少なすぎる。まだまだ老廃物が詰まっている。これらをどんどん排出していかないと、あっというまに詰まってしまう。くやしい。苦しい。痛い。辛い。寂しい。いろいろな感情と、それに伴う言葉が、血管の中で震えている。こいつらをどんどん排出していかなければ、僕は退屈して眠り続けるしかない。