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科学コミュニケーションの歴史概観:20世紀後半の日本社会における科学

科学コミュニケーションは科学と社会の対話を促進する役割を担っている。対話すべき相手とされる“社会”は刻々と変化を遂げ、それに呼応して“社会”の中での“科学”の様相も変わる。これから何回かのnote記事では、社会の中の科学がどう変遷してきたのかを概観したい。

まず今回は、20世紀後半に目を向けたい。

20世紀後半の日本社会における科学の概観

下図は文献[1,2]を参考に作成した、日本社会における科学の歴史の概観だ。

20世紀後半の日本社会における科学の概観

1950年代について

戦後の科学振興による科学のイメージは今とはまるで違うものだった。70歳以上の学者の方々の回想に触れると、それを切に感じる。冷戦中の衝撃「スプートニクショック(1957)」は科学技術の進歩を日本人のみならず人類に強烈に知らしめた。原子力を動力源とする「鉄腕アトム」の連載開始も1950年代だった。科学への期待が膨らむ時代でもあったが、その陰では不知火海沿岸で発見された水俣病(1956)が顕在化していった。

水俣病については、科学コミュニケーションの観点から、もっと理解を深めたいと考えている。この個人的理由により、“科学と社会”の話題になると水俣病を取り上げがち。

1950年代には第二次科学雑誌ブームがあった。ちなみに、第一次科学雑誌ブームは戦前(『科学』1931年創刊や『科学朝日』1941年創刊など)。

1960年代について

1960年代には東京オリンピックに代表されるように高度経済成長による活気が増した。しかし一方では、水俣病の原因が、メチル水銀を含む工場排水の垂れ流し、そして、その生物濃縮による人体汚染であることも判明。公害問題が存在感を表し始めたことに追い打ちをかけるように、1965年には“第二水俣病”と呼ばれる新潟水俣病が公式確認された。1970年代には反公害運動が本格化し、科学技術や経済成長への疑問が呈されるようになった。

1970年代について

1980年代に入ると、地球温暖化や環境ホルモンの問題、資源の枯渇化が心配されるようになった。また、それまでの反省もあり、社会と科学の関係を見直そうという動きも政策の中に見え始める時期でもあった。

1990年代について

1990年代には、理工系分野進む人材の不足が取り沙汰されるようになり、「理科離れ」が言われ始めた。その中では、科学リテラシーの涵養についても課題として浮かび上がった。「理科離れ」については以下の長沼祥太郎氏による文献も参考になる。


以上のようにざっと見るだけでも、“社会”は変わり、その中で“科学”の位置づけも変化を遂げている様子が分かる。その後、世紀末が近づき、21世紀の科学が問われ始めた。世界的も、20世紀の科学の在り方を見直す雰囲気が高まったのだ。

20世紀末。科学の在り方に関する人類の議論は、転換点を迎える。今度のnote記事では、その転換点「ブタペスト宣言」について書く予定。

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