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キリギリスは働いていない #シロクマ文芸部
働いていない年月のほうが、長くなってきた。
10月、お世話になっている保険屋さんから連絡があった。
11月は保険の月だし、自分の保険も更新の時期だ。保険も常に変化しているから見直しもしなくちゃいけないな、と思っていたら、実はそろそろ定年が近づいている、という。引継ぎの人を連れて行くつもりだとのことだった。ああそういえば、そういうお年頃だった、と、我が身と彼女の年齢を振り返った。
私は結構ガチな生命保険に入っている。
結婚前の或る時期、生保で働いたことがあるからだ。
働いた、といっても、期間は非常に短い。ちょうど別の仕事の契約切れの直後で、いわゆる「勧誘」をされた。
その時の経緯も、令和の今振り返ればコンプラ的にとんでもなくアレな感じだったのだが、その話はもういい。入った私のほうもアレだったし、もう半分、研修受け逃げみたいな感じである。
その時に自分で自分を保険に入れた。
色々勉強したことは無駄ではなかったと思うけれど、もう何十年も前の知識だからその時の実務は今は全く通用しない。ただこの時、自分はあっさりやめたけれど、「続く営業さん」を見る目だけは養った。
その後結婚して、保険をどうしようかなと思っていたちょうどのタイミングで、生保レディ(当時の呼称。今はどうなんだろう)の何人かに営業された。比較検討して「この設計書のひとに決めた」と思った女性が、今の保険屋さんである。
以来、もう三十年来のおつきあいだ。
彼女は、営業所が変わっても、偉くなっても、私の担当の保険やさんであり続けてくれているし、私もどんなに引っ越しを繰り返そうと、彼女のお客さんであり続けている。
初めて保険に入る時、設計書を前に私は言った。
「今は専業主婦だけど、いつでも働けると思っているんです。だからこの保険がいいと思ったんです」
生意気である。
他の設計書は、永遠に私が働かない前提の、専業主婦向けの平凡な設計書だったが、彼女の設計書は、私が仕事をするかもしれない前提に立った、結構攻めたものだった。
そして初めて会ったとき、こうも思った。
「この人は、絶対、仕事を辞めない」
こうして三十年おつきあいをしてきて、改めて、その勘は正しかった、と思う。
あの時の彼女には、なんというか、覚悟がみえた。この仕事で生活していこうという気概が、設計書ひとつにも、あらわれているように思われた。
「保険は、使わないで済めばそれがいちばんいいことなんですが、でもそう思う人は少ないです。掛け捨てのお金で、安心安全を買っているとは思わない人も沢山います。無駄なお金だと思えばそう思えるお金ですからね。時代も変わってきましたし、保険もさまざま、考え方もさまざまです」
そうなんだよね、と思う。
保険はもともと、相互扶助の概念を元にスタートしたものだが、今はセキュリティーの面だけが強調され、ずいぶん、そういう感覚が薄れてしまったようにみえる。どう考えるかはその人次第だ。保険嫌いな人は徹底的に嫌いだし、なんとなく営業されて何となく入った保険を、自分の収入の増減でやめてしまう人も多いと思う。
私は、「いつでも働ける」などと言っておきながら、結局働くタイミングを逃し、パート・アルバイト主婦から専業主婦になってしまった。
だからもちろん、保険は常に「悩む支出」のひとつだった。それでも続けているのは、収入が無いからこそ、困ったときのためにという気持ちがあるからだ。
私が死んでも、家族を含む全人類は、全然ちっとも痛くもかゆくもないが、私が病気になると、家族は少し困るのである。だから医療保険だけは、長く続けてきたのだった。
ユダヤの富豪の教えか何かに、自分の収入の1割を寄付する、みたいなものがあったと思う。それがいいとか悪いとかではなく、実際、寄付に関する考え方も、それぞれの国でそれぞれの考え方がある。日本では浸透しづらい考え方でもあるように思う。保険もそれに似ている気がする。
お金の使い方や、お金にまつわるものの考え方は、非常にバリエーションがあり、個性的だと私は思う。そしてそれは、「働く」ということに常に直結している。
さて私は、曲がりなりにもいちおう、家のことは「最低限の範囲」を「最低限のレベルで」やっている。
法律上も専業主婦は「家事をして働いている」ということになっているのだが、世間の目は厳しい。外で働かないと「働いている」とはみなされない。そもそも、外で働いていたって「最低限の家事」はみんなしているので、あたりまえのことをやっている人が果たして「働いている」といえるのか?という疑惑は常に付きまとう。
人々の働き方は、この三十年でずいぶん変わってきたと思う。定年まで同じ会社に勤め続ける人も減っているというし、仕事の内容そのものだけでなく、出勤時間や就業形態、連絡方法やコミュニケーションの仕方まで、どの職種においても、かなり変化している。
AIが進化すれば無くなる仕事もある、とだいぶ脅されてもいるし、同じ会社で同じ仕事に従事していても、日々勉強し続けなくてはついていけない。それどころか業務が成り立たないことがたくさんある。
大きな経済の中では、私は働いてはいない。
アリとキリギリスでいえば、キリギリスである。アリ夫の収入の中で、こちゃこちゃやっている。
「働かざる者食うべからず」の喩えには、よくイソップ寓話のアリとキリギリスの物語が取り上げられる。
寓話の中でキリギリスは、夏の間歌ったり楽器を奏でたりして楽しく暮らし、寒い冬がきて蓄えがなくなると、アリに助けを請う。アリは「夏の間必死に働いて貯めた蓄えを、遊んで暮らしたものに分け与えられない」と、冷たく突き放し、キリギリスは虚しく死んでいく。
確かにキリギリスは働いていない。
先日逝去された谷川俊太郎さんが翻訳した、レオ・レオニの絵本の中に、私が特に好きなものがある。『フレデリック』という、野ネズミたちのお話だ。
詳細は、以前ブログで書いた。
お百姓さんが引っ越してしまった農場で、5ひきの野ネズミたちはせっせと冬に向けて働き、たくさんの食料を蓄える。その間、そのうちの1匹であるフレデリックは、仲間の働きを見ながら何もしない。そんなフレデリックに仲間たちは呆れたり、怒りを感じたりするのだが、フレデリックはこんな風に返事をする。
フレデリック
どうしてきみははたらかないの
みんながきいた
こうみえたってはたらいてるよ
フレデリックはいった
さむくてくらいふゆの日のために
ぼくは お日さまの光を
あつめているんだ
ブログの中で、私はフレデリックが「詩人」として認められたことについて、こんなふうに書いた。
言葉と言うものは、文化、国、地域、人を含んだ、バックグラウンドから発せられるものなんですね。フレデリックが「本当に何もしていない」のならば、仲間たちを感動させる言葉は使えなかったと思います。フレデリックにはフレデリックの仕事があったからこそ、仲間たちとの共通のつながりがあったからこそ、その言葉は価値のあるクリエイティビティを持ち、仲間たちは彼を「詩人」と讃えたのだと思います。
もし、キリギリスがアリともう少し深い交流を持ち、クリエイティブな活動がアリたちのために資していたのならば、アリたちも、もう少し違った対応をしたのかもしれない。
「なにもしない」ように見えることのなかに、価値を見出せるとしたら、それはやっぱり「相互扶助」の精神なのかもしれない、と思う。
保険は何もなければただ無駄かもしれないが、そのお金は誰かを助け、いざという時は自分を助ける、と考えるなら価値を持つ。
「はたらいていない」は、「はたらきたくてもはたらけない」から「はたらきたくない」までいろいろある。病気や怪我、事故や介護でやむを得ない人もいるだろうし、転職がうまくいかなかったり、退職後、社会との接点を持つことができなくて苦しんでいる人もいるだろう。辛い労働から解放されてホッとしている人もいるかもしれない。
「はたらかない」と見えている人も、「いざ」という時に役に立ったり、働いている人が困っているときに支えをになう人材なのかもしれない、という視点は、大事な気がする。
キリギリスは本当に働いていなかったのだろうか。
働くって、なんだろうか。
了
今回はエッセイで参加します。
小牧部長、よろしくお願いします。