言葉あれこれ #10 童話
尊敬するgeekさんの記事にコメントを書こうとしたら、500字では収まりきらなくなってしまった。改めて「童話」について考えさせられたので、記事にしてみようと思う。ただしこれは記事を読んで反射的に考えたことなので、個人的な覚書に近く、深い調査と沈思黙考を省いていることをご了承いただきたい。そしてこれは、geekさんへの反論や異議申し立てでもない。正解がある話ではないと思うし、geekさんの記事からはきっかけをいただいただけである。
geekさんは今回の「ウミネコ童話集」のために「童話」を書くにあたって「童話」というもののストライクゾーンとは何か、という問いをまず立てたのだという。
私はこれが、取り組み方として素晴らしいことだと思った。
おそらくたいていの人は「童話ってこんなものでしょ」という漠然としたイメージを抱き、書き始めて、あれっと思うのではないかと思う。
「童話」ってなんだっけ。
どんな話を目ざせばいいんだっけ。
お姫様や妖精が出てくるんだっけ。
子供が主人公のお話なんだっけ。
やはりどこかで一度ならずそういう問いにぶつかり、自分なりに探し始める。そこからの道のりは人それぞれだと思う。その人それぞれの道をたどって、「ウミネコ童話集」ができている。
それを思うと、私はそれそのことそのものが「尊い」と思うのだ。
子どもの頃「児童」とカテゴライズされることに違和感を覚えることがあった。それはいつもではなく、何か心にひっかかる言葉や出来事があったときに発動した。子供ではないと思っていたわけでもないし大人だと思っていたわけでもないが、そういう時は、大人の想定する「児童」にはめ込まれるのが嫌だと思った。
昭和平成に育ち、子供は言うことを聞く存在、子供はコントロールされる存在ということが「あたり前」だった。大人の求める答えを言う子供が優遇され、裸の王様を指摘する子供は嫌われる。
当時は「子どもには理解できないから」「子どもには害悪だから」と言う理由で禁止されたり秘されたものが多かったいっぽう、アイドルの歌や雑誌、テレビのバラエティ番組、ドラマ、ゴシップニュースなどは露骨なものも多かった。
令和の今が大層いいようなことを言う人がいるが、私の感覚ではたいして変わりはないと思う。バランスが違っただけだ。それでも子供の側に目を向け、子供の言うことを「聞くふり」くらいはするようになった。
それが「正しいありかた」という気はない。なんでも極端はいけない。子供の言うことばかりきいていて、人間がまともに育つとも思われない。
でも「聞かない」よりは、少しはましである。
結局バランスは昔も今も悪いのだと思う。シーソーややじろべえでいえば、あっちに傾いたりこっちに傾いたりしている真っ最中だ。それはいつも意識している。だからあの頃は良かった、という大人にだけはなりたくないといつも思う。
一方で、昔から大人が子供を「守らなければいけない存在」と思っていることや「大切にされている」ことも感じていた。それが悪いことだとも、もちろん思わない。養育者と被養育者という現実は確実に存在している。誰かが守り育てなければならないものは、確かにある。
ただどこかでずっと、大人の中に子供はいるし、子供の中に大人がいて、それはきっぱり別れるものではないということだけは、漠然と感じていた。
大人と子供。保護者と被保護者。守るものと守られるもの。飼うものと飼い馴らされるもの。支配者と被支配者。
そういった二項対立の図式を打ち破ってくれたのが、私にとっては河合隼雄先生だった。
河合隼雄氏の本は皆、私にとってはバイブルともいえるものだが、今回この文章を書くにあたって、特に『おはなしの知恵』という本を強く思い出した。
その本の中からなにか引用したり抜粋したりしようと思ったのだが、あまりにも含蓄が深い部分だらけで、ちぎって切り取って貼り付けることができない。しかしこの本を読むと、人間にとって「おはなし」が根源的な部分に根差して必要なものであるということがよくわかる。
「おはなし」は、きちんと理解し(「おはなし」は有益であるいっぽう危険性もはらむから)、多種多様なものをたくさん読んで「おはなし」に免疫をつけ、自分自身の「おはなし」を持つことが大切なのである。ここで言う「おはなし」は、昔話から神話、民話、童話、文学作品まで幅広く含む。垣根はないが、垣根がないということを言うまでにも、氏は大変慎重に言葉を尽くしている。
それでもなにか、区別と言うものはあるだろう。
本屋に行けば、それなりに分類されているし、図書館でもレファレンスされている、そういうかたもいるかもしれない。
現代における童話と児童文学、文学の差は、主人公と対象読者の年齢、かつ「性」「暴力」の描写の有無(度合)だと聞いたことがある(なにか文献で読んだものではない)。
つまりR指定だ。
しかし制限の度合いは時代や人によって違い、基準はあいまいなものだ。
現代は制限が厳しいように思えるが、実はそうでもない。書店に行けばわかる。世界が広がり過ぎてしまって収集がついていない。子供の絵本コーナーの裏側に、目と胸の大きな少女が異世界で大活躍し、その正体はおじさんだというお話がずらりと平積みだ。
分類され、ラベリングはされているが、その後の扱いが雑なのだ。私はだから、今の「童話」「児童文学」「純文学」といった括りは、暫定的なものだと思っている。
大切なのは「たましいにとって大切なおはなし」なのだと思う。その「たましい」は自分にも、社会にも目に見えないが存在している。
たとえば、いたいけな子供のたましいや、自分の中の子供のたましいを思って書くならそれは童話や児童文学足り得るし、童話としての条件をじゅうぶんに持ちうるのだと思う。
だから、お金のためや既得権益者が喜ぶもののためならそれは、童話であっても童話と言えない、と思う。子供は漫画が好きだから漫画の絵をつけておけばいいというのも違うと思う。漫画絵がすべて悪いとも思わないが、子供ほど名画を見抜き、瞬時に理解できる存在はないというのに、挿絵を全部漫画にするのはもったいない、と思う。
「ウミネコ童話集」に参加するにあたって、私も「はて?」と考えた。
最初に童話集のことを知った時は締め切り直前で、その時私が出せるものといったら、昔、自分が「童話」と思って書いた童話(『白熊と光』にいれた「星に願いを」)だけだった。
恥を忍んでウミネコさんに「9,000字なんですけど無理ですか」と無謀なお願いをしたところ、ウミネコさんは(初対面でそんな厚かましいことを言われてびっくりしたと思うのだが)、それは無理ですが追加で募集するのでと、時間に余裕があることを教えてくださった。今思うと本当に赤面ものだ。
でもどうしても、参加したいと思ったのだった。
これは文学においても記念碑的な作品になると直感した。「既に令和史に刻む勢いのジュテーム(by戸川純)」的な本だと思っている。笑
悩んだが、今回は基本的に大人が読むものだと思ったこともあるし、自分が子供の頃読んでみたいと思っていたものは、大人が決めた子供の話じゃないんだよみたいな気持ちもあり、結局、「童話のイメージ」に対するアンチテーゼを含んだお話を書くに至った。「大人のための童話」に分類されるのだろうと思う。もちろんパーフェクトに満足とは言えないけれど、でも、私は私の中の子供のたましいを思って書いたつもりだ。それについては、満足している。
いったん、了
<参考>
河合隼雄『お話の知恵』
geekさん、考えるきっかけをいただき、ありがとうございます。
「ウミネコ童話集 第二集」で同じ巻に名前を連ねられることがこの上なく光栄です。
geekさんの素晴らしい童話はこちらから。
※本になって読むのを楽しみにしているので、まだ読んでいない作品が沢山あります。刊行を心待ちにしております。