『冒険の書 AI時代のアンラーニング』 - 同世代の冒険者 孫泰蔵さんとのシンパシー
同年代であたりまえに違和感をもった冒険者
孫泰蔵さんは2023年現在、50歳で私の3つ上。96年にYahoo! Japanの立ち上げに参画。インディゴ株式会社でYahoo! Japanの運営をされていたり、その後は「パズル&ドラゴンズ」をリリースしたガンホー・オンライン・エンターテイメント株式会社に携わり、その後は、MOVIDA JAPAN株式会社スタートアップ・アクセラレータをされたいたり、いまは、Mistletoe株式会社で起業家の育成、ベンチャー企業への投資をされたりと連続起業家として活躍されている。
当時私は、2000年にインテリジェントネット株式会社(現、INI株式会社)というWeb制作やコンサルをする会社のボードメンバーとして起業したタイミング。インターネット黎明期でまだ世界も狭く存在は知っていました。ただ、直接の面識もなく、インターネットでビッグビジネスをされる方なんだろうなというくらいイメージでした。
そこからずいぶんと時間が経ち、再び名前をふとしたきっかけで聞いたのは2018年、2019年あたりだったと思います。会社やコミュニティ運営を長らくやってきたなかで、組織のあり方、コミュニティのあり方、機能体とか共同体といった役割について考えたりしていたタイミングでした。
そのころ、自律型組織とかティール組織などのキーワードが出てきていて、WebSig24/7(2004年から始めた有志によるWebプロフェッショナルのコミュニティ)のメンバーとそんな会話していました。そんな会話から、友人が孫泰蔵さんと新しい形の組織運営に取り組んでいるという話を耳にして、へぇ、そんな感じの取り組みをされる方だったんだと、興味深いと思いつつ、少し意外に感じた記憶があります。
そこで興味を持って、このほぼ日の記事も読んでいた気がします。
おぉ、ぜんぶやめてる!会社から共同体へとか同じ課題意識をもってる! 同世代の人が時代が変わっていく中で、旧来のあたりまえに違和感を持ち、もがいているとシンパシーと勝手に同志感を感じていました。
2023年『冒険の書 AI時代のアンラーニング』でふたたび出会う
2023年2月16日の発売日、孫泰蔵さんをFacebookでフォローしていてたので知ったのか、知人のSNSで流れてきたのかきっかけを忘れてしまったのですが、幸運なことに『冒険の書 AI時代のアンラーニング』を手に取ることができました。パラッと読んでいくとすぐにガツンとやられました。
『冒険の書 AI時代のアンラーニング』は、AI時代とあるようにいま急速に変わっていく環境において、学校教育ってなんでこんなにかわらないんだろう?人生は本来すごくワクワクするもののはずなのに、どうしていつも不安を感じながら生きていかなければならないんだろう? そんな大きな問いに、古今東西の書籍や思想に触れて未来の教育を考える物語。
問いを立てる力を目の当たりにできる
よく言われるこれからは問いを立てる力が大切になるといったようなことば。わかるけど日々のなかに落とし込むのが難しいことばでもあると思います。この本を読み進めると、あぁ、こういうことなのかということなのかととてもシンプルに感じることができると思います。
学校ってなんだ?
なんで学校に行くんだっけ?
なぜ大人は勉強しろっていうの?
好きなことだけしてなぜいけないの?
じゃあ、これからどうすればいいの?
孫泰蔵さんの問いを立てる力に脱帽するだでなく、すこしこの問いを立てる力の源泉となるポイントがあるように思うのでメモしておきます。
ぼんやり妄想する
As-Is/To-Be、Fit and Gapなんていわない。ぼんやりとこういう未来がありそうだ、こっちがいい匂いがしそうだな、あったらいいのになと妄想する。こどものように疑う
裸の王様の子供のように「王さまは何もきていないよ。」ということはとてもむずかしい。けれど、この鈍感力というか子供力が、ますます重要になってきているように思います。「あたりまえ」や「常識」は20世紀のよう誰もがこれが好き!というようなことはなくなり、細分化されて来ていますが、まだまだ根強いところがあります。子供力のキープ。
こんなところが重要なのではないかと思います。
歴史的アプローチで点と点を結ぶ
どうしてこの「あたりまえ」が出来たのだろう。これを紐解くことは時代を読み解きながら長い時間軸で考える必要があるためなかなかに難しい作業です。
本書では、それを古今東西の文献にあたりながら検証していきます。ここの縦横無尽っぷりが楽しい!
知識を紡いで知恵にしていく、点と点を結んでいく、抽象と具体の行き来、メタ認知ということはこういうことなんだなぁというのがすっとやさしく(これもすごい)感じることができます。なんだろう、楽しいって感じがするんですよね。挿絵もいい!
時代性をもって批判を繰り返す
自分の仮説の正しさを証明するために、検索するとあっというまに自分の意見を肯定する情報にたどり着いてしまう時代に私たちは生きています。自分がすでに持っている先入観や仮説を肯定するため、自分にとって都合のよい情報ばかりを集める、いわゆる確証バイアスは、情報にアクセスしやすくなったはずなのに、ともすれば、以前より確証バイアス囚われやすい時代なのではないでしょうか。
SNSのタイムラインなどはフィルターバブルという問題があるように自分のいいねやリンクを踏んだ記録から嗜好性を(まだ)つたないアルゴリズムでレコメンドされ、どんどん偏った情報を見せられます。
自分の仮説を検証しようとすると、見知らぬ誰からのブログだけでなく、都合よく解釈できてしまう偉人の名言でも1つ見つけたら安心してしまう。
この本はでは「あたりまえ」を疑う冒険に出て、時代時代の偉人にあたるような人と出会う物語なのですが、その偉人の意見もまさに子供力でフラットに触れていきます。
その時代の背景をとらえながら、なぜそのように考えたのか、いまとこれからにその考えはどうなのか。批判を繰り返し、咀嚼し自分で考えていく。まさに冒険!
インターネット以前の音楽の聞き方だがライナーノーツからルーツを探り、点と点をつないでいくようであり、論文をとても易しい形で紡いたようであり、私が大学の恩師から教わった個から全体を観るという考え方のようでもあった。一番わくわくしたポイントでした。
楽しく生きるコツは一仕事すること
こんな文章が出てきます。
デジタル化は人間にどういった一仕事を残すのかということが重要なんじゃないか
分業は人間しかできないけれど幸せ感を感じにくくさせたのではないか。
これからひとは、一仕事、つまり、分業なく、あたまからお尻まで自分でやりきれるようなことに幸せを感じるのでは、ということを以前書きました。
区別、分業したことが悪かったんだ!ということではなく、生き抜くために食べなければならない、モノの量、金銭的に豊かになることが価値観だった時代ではとても効果的でした。
ファクトフルネスのように一定豊かになり、インターネットを始めとするテクノロジーは大きく変わりました。その結果、うまれたのは余剰と余暇です。
モノの余剰は、片付けで有名なこんまりメソッドのように、モノで幸せ感を感じるのは増やすのではなく、減らすことを考えることが幸せにつながるのであるということを示唆したしたことであり、余暇は金銭を得るための圧倒的な時間を使っていたライスワークが減った場合、その余暇を私たちはどうすごしたら幸福感を得られるのかということを考えさせられます。
AIが私たちの仕事を奪うというのではなく、どのように味方につけて自分たちが一仕事していけるのかということを考えてみるのが重要なのではないかと思います。
お勉強と勉強の区別からの脱却
私は北海道の北広島というボールパークでいま少し話題の札幌のベットダウンで育ち、地元の高校に通っていました。いまはわからないですが、北大に現役生が数人入るくらいのまぁ進学校といえばそうともいえるような学校です。
中学校まではわりと優等生で勉強もまぁ出来ていたと思います。それは、勉強をしていたというより、それほど授業や勉強が嫌と思ってなかったことが大きいところです。けれど、高校に入るとめっきり授業に興味が薄れてしまいます。
音楽や小説や女の子や友だちと遊ぶことが楽しいっていうこともあるけれど、それ以上にどうにも学校の授業がつまらなく、学年が進むに連れて大学に進学させるためにあるような授業にさっぱり興味がもてなくなりました。
これだったら、予備校のほうがいいし、徹底的に効率的にやったほうが良いと思い、2年の半ばくらいからは授業はさっぱり聞かなくなりました。けれど、テクニック的なところというか、いわゆるテストハックみたいなことはやっていたので、まぁぼちぼちテストの点数は悪くないが素行は悪いという面倒な生徒だったと思います。歴史の授業のときに一番前の席で英語の勉強を辞書をひらいてそのまま辞書で殴られたこともあります。大学合格記なるものがあるのですが、在籍していた高校からは初の筑波大学の合格者となった私はおまえは参考にならないから書かせないといわれました(笑)。
そんな価値観だったので、札幌まで予備校にたまに通っていました。受験直前の最後の授業でなんの科目かなんていう先生かさっぱり忘れてしまったのだが、とても覚えているセリフがあります。
かなり記憶があいまいで数字などは怪しいですが、概ねの趣旨は変わらないと思います。なんともわりと悲しげな先生の表情もセットで覚えています。
この区別には気づいていたのでふーんとしか思わなかったですが、そうか大学生はそんな勉強もしないのかと思いました。実際、親元を離れて友だちと過ごす大学時代前半はかなり勉強に使った時間も短く、卒業間近とプラス2年の残留期間を経てなんとか勉強しました。
冒険の書を読む限りやニュースを見る限りカリキュラムは変わってきたりするものの大勢は変わらないように見えます。
このように斜に構えたことをしなくてもよい環境は必要なのだと思います。なにより真面目に学校や授業に向かい合うほどつまらないということは不幸です。
これを国、学校教育の問題としてなんとかしてよ!と捉えるのではなく、時代の要請として捉えることで、時代の変わり目では、身重な国や学校からでなく、民間やコミュニティから新しい学びがあると考えるのが筋が良いのだろうと思います。
子供や大人を区別せず一緒に学ぶあえる活動を自分でもしたいと思ったこと、なによりそういった場をつくっていきたいと思いました。いやー、やるぞー。
おまけ:点と点をつなぐプロセスが気になってやったこと
とても読みやすく書かれていることもあり、すっと点と点がつながっていくように読めてしまいます。けれど、取り上げられていない膨大な点や苦悩があることも想像できてしまいます。その点がつながっていくプロセス、コミュニケーションはどのようなものだったのかとても気になりました。
苦悩は、本人しかわからないところだとは思いますが、少し垣間見れないかなぁと思ってやったことのメモです。
・ネット上に転がってる孫泰蔵さんの情報や記事などはあまり多くないように見えたので片っ端に読んでみた。ほぼ日の文章も5年ほど前のものですが、いま読み直してみると本書とつながっていく感覚がありました。
・世界に散らばる冒険の書で気になったものをいくつか手に取ってみる
イヴァン・イリイチはここ数年、気になる方々がとりあげる機会も多くてまずはそこからチャレンジ。
・『読書大全』 にも出会ってしまった
ううむ、、448ページ。鈍器本だけど買ってみよう。
・出版に際してFacebookにポストされた「一緒にいる方」78人でフォロー可能な方をフォローしてみた。Facebookは強烈なフィルターをかけてくるのでこういうのもいいですね。
いやぁ、なかなか先々まで楽しめそうなきっかけをもらえたすばらしい本でした。今一度、気になったところを読み直して行きたいと思います。
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