見出し画像

感じるな、考えろ #20

 夕暮れの空が深みを増し、薄紫色に染まりつつあるころ、わたしはデスクの上の書類に目を通していた。外からは秋の風がそっと入り込み、オフィスのカーテンを揺らしている。いつものこの時間、彼女がやってくるのを感じ取って、わたしは自然と微笑んだ。

 彩香は、わたしのクライアントの中でも特に情熱的で、そして少し不器用な女性だ。新しくビジネスを立ち上げ、何とか成功させようと頑張っているけれど、いつも迷いが生じているようだった。とはいえ、彼女がこの部屋にやってくる理由が、純粋にビジネスの相談だけだとは限らないのだ。

 「お疲れさま、彩香さん。どうぞ座って」わたしはいつものように彼女を迎え入れる。

 彼女は軽く会釈し、わずかな疲れを感じさせる動作でソファに腰を下ろした。けれど、すぐに顔を上げて、何かを話そうとする。わたしはその瞬間、彼女の目に恋愛の影を見つけた。

 「最近、どうですか?」わたしは少し気を逸らすように尋ねる。彼女が何を言い出すのか、少しだけ予感があった。

 彩香は、しばらく黙ったまま窓の外を見つめていた。薄い秋の雲が流れ、夕日に照らされている。そのまま、彼女はふっとため息をついた。「……あの、彼のことなんですけど……」

 やっぱり、わたしの予感は当たっていた。わたしは微笑みを隠しつつ、彼女の言葉を待った。ビジネスの相談に来るはずなのに、なぜかいつも話題が恋愛の方へと流れてしまう。彩香自身、きっとそれに気づいているはずだが、やはり心の中にあるのは彼の存在なのだろう。

 「最近、彼とあまりうまくいっていなくて……」彩香の声には、悩みと迷いが見え隠れしている。「彼が何を考えているのか、全然わからないんです。仕事のことももちろん考えているんですけど、つい彼のことを考えてしまって、結局どちらも手につかなくて……」

 彼女の話を聞きながら、わたしはふとビジネスと恋愛の共通点を思い出した。どちらも、考え続けることでしか進めないものだ。考えることを放棄してしまえば、すぐに行き詰まり、先が見えなくなる。ビジネスも恋愛も、どれほど心が苦しくなっても、投げ出さない限り進展がある。

 「彩香さん」とわたしは静かに彼女の名前を呼んだ。「それって、ビジネスでも同じことだと思いませんか?」

 彼女は驚いたように目を見開いた。「ビジネス、ですか?」

 「ええ、考えなきゃいけないことって恋愛でもビジネスでも多いですよね。たとえば、相手が何を求めているのか、どうすればその願いに応えられるのかを考える。それを放棄してしまえば、恋も仕事もうまくいかなくなる。だからこそ、考え続けることが大事なんです。」

 彼女はしばらく黙り込んだ。自分の中で何かを整理しようとしているようだった。思考の迷路の中に入ってしまうと、どんなに歩いても出口が見えないことがある。でも、それでも歩き続けなければ、道を見つけることはできない。

 「考えすぎているのかもしれません」と、彼女がつぶやいた。「彼のことも、仕事のことも、どうしたらいいか分からなくて、ただ考えてばかりで……」

 「彩香さん、考えすぎること自体は悪いことじゃありませんよ」わたしは優しく言葉を続けた。「大事なのは、考えることを放棄しないことです。恋愛でもビジネスでも、考え続けるからこそ、少しずつ答えに近づけるんです。すぐに解決しないからって、途中で投げ出したら、そこですべてが止まってしまうんです。」

 彩香は黙ったまま、窓の外を見つめ続けていた。まるで心の中で何かを整理しようとしているように、その目は遠くを見つめている。彼女がこの瞬間、何を考えているのかはわからない。けれど、その思考の中で、何か小さな答えが見つかるかもしれない。

 やがて、彼女はゆっくりと顔を上げた。「考えることを止めない……か。それって、結局は自分に向き合うことなんですね。彼のことも、仕事のことも、もっとちゃんと考えてみます。」

 わたしは微笑みながら頷いた。彼女が抱える迷いも、考え続けることでいつか解決するだろう。恋愛もビジネスも、簡単にはいかないものだ。けれど、考えることをやめなければ、少しずつでも前に進むことができる。

 彩香がオフィスを出るとき、空はすっかり暗くなっていた。秋の冷たい風が彼女の背中を押すように吹いている。彼女の足取りは、少しだけ軽くなっていたように見えた。

 考えることを止めなければ、いつか必ず道が見つかる。そのことを、わたしは改めて自分自身に言い聞かせた。

いいなと思ったら応援しよう!