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恋と仕事の境界線 #8

もう、どうにもならないかもしれない。

私は店内の本棚を見つめながら、そんな思いが頭をよぎった。ここ、あかり書房を開いてから3年が経った。書店でありながらカフェも兼ね備えたこのブックカフェは、静けさと居心地の良さを大切にしてきた場所だ。けれども、最近は心の中に広がる静かな焦りを抑えられなくなっていた。

本を手に取りながら、ふと手が止まる。この本は、初めて店を開いた日に選んだ一冊だった。当時の私は、希望に満ち溢れていて、この場所が自分と他人を繋げる温かな居場所になると信じていた。それは、今も変わらない。でも、何かが違ってしまった。

店の中はいつも通り静かで、コーヒーの香りが漂い、心地よい空気が流れているはずだった。常連のお客様も、顔を見せてくれる。特に、青木さんが来る日は私にとって特別な日だった。彼がこの店に来るたびに、私は心の中で小さな喜びを感じていた。それでも、最近はその喜びも薄れていくように感じていた。

「どうして、こんなに心が揺れるんだろう。」

自分に問いかけても答えは出ない。小さなブックカフェを経営することは、予想以上に心を消耗させることがある。青木さんとの会話は、私にとって癒しであり、日々の支えでもあった。彼が笑顔でコーヒーを受け取る瞬間、私の胸はほんの少しだけ高鳴っていた。だけど、その思いが日に日に重くなっていくのを感じていた。

私は青木さんに恋をしていた。でも、彼にはその気持ちを伝えることはできなかった。彼はいつも優しく、温かく接してくれるが、その態度が私の心をさらに揺らす原因にもなっていた。

ある日、青木さんがいつものように店を訪れた。彼は決まった席に座り、いつものようにホットコーヒーを頼んだ。私も、いつものようにそれを淹れて彼に手渡した。彼がコーヒーを受け取る瞬間、ほんの少し彼の手が私の指先に触れた。その瞬間、私の心臓は大きく跳ねた。

「最近、どうしたの?」

青木さんがそう尋ねてくれたとき、私は思わず涙ぐみそうになった。彼の目には何もかも見透かされているようだった。私は、どうしても自分の弱さを見せたくなくて、ただ微笑んで「なんでもないですよ」と言った。でも、心の奥底では、もう続けられないと感じていた。この店と、そして自分自身の気持ちを抑え込むことが。

この店を閉めるべきかもしれない。

そう決断するのに、時間はかからなかった。店を閉めることは、私自身を救うための選択だったのかもしれない。そして、彼に対するこの気持ちも、一度は整理しなければならないと思った。彼に伝えるべきなのか、それともこのまま静かに心の中にしまっておくべきなのか、答えはまだ出ない。お店を続けていくことに、こんなにも気持ちの安定が必要なんだとは、思いもしなかった。

店を閉じた後も、私はしばらくの間、何もできずにいた。あの場所がなくなったことで、私の心にぽっかりと穴が空いてしまったようだった。でも、同時にその静寂が、心を癒してくれる気もした。やっと、自分自身を取り戻すための時間ができたのだ。

「また、いつか。」

心の中でそう呟く。青木さんとの時間は、私にとって特別だった。でも今は、まず自分の心の静けさを取り戻すことが先決だ。いつか再び、彼と向き合える日が来るのかもしれない。その時が来たら、今度はもう少しだけ勇気を出せるように。

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