戦わない強さ #17
デスクの上に置かれたスマホの、メール通知音が鳴った。麻衣子の名前が画面に浮かぶ。見慣れた名前だが、最近はその文字列が重くのしかかる。
起業をサポートしていた麻衣子、私は何度も彼女のビジネスの成功を手助けしてきた。だが、今、彼女はビジネスとは別のことで迷い込んでいる。
「そんなこと言わなくてもいいのに。」
長文のメールを読んで、ため息が出た。
麻衣子が最近繰り返しているのは、彼への不満と非難だ。最初は些細なことだったが、今や何かにつけて彼を責め、冷たい言葉を投げかけている。彼との関係も協力し合うことで成り立っているはずなのに、麻衣子は彼の小さな過ちを容赦なく指摘し、非難する。
まるでそれが自分を守る唯一の方法だと思い込んでいるかのように。
一度、麻衣子に「少し言い過ぎじゃない?」と注意したことがあった。だが、麻衣子は「悪いことをしたのは彼なんだから!」と言い返し、私の言葉に耳を貸すことはなかった。彼女は自分が正しいと信じている。そして、彼を批判することで、何かを保っているように見えた。
オフィスのドアが開き、クライアントとして訪れた麻衣子が入ってくる。冷たい表情が私を見つめている。彼女の瞳の奥には、焦りと苛立ちが混ざり合っているのが見えた。
「どうして、こんなことになったんでしょうか?」
麻衣子は問いかけた。声には焦燥感がにじみ出ており、彼女自身がその状況を制御できないことへの苛立ちが感じられた。彼との関係は、最初こそ良好で、互いを理解し合い、支え合っていたはずだ。それがいつからか、些細なことで衝突し、彼女が批判的になることが常態化していた。そしてそのたびに、彼の表情は少しずつ曇り、彼女の攻撃に耐えているように見えた。しかし、麻衣子はそれに気づいていながらも、何も行動を変えなかった。むしろ、自分が正しいという確信に支えられ、彼をさらに追い詰めていったのだ。
「どうしても、彼とはうまくいかないのよ。彼が私を理解してくれないの。」
私は静かに彼女を見つめ返した。何かが麻衣子の中で壊れてしまったのかもしれない。それは、彼女自身の成功や期待に応えようとする重圧から来るものなのだろうか。それとも、彼に対する不満が積もり積もって、もはや解消できないほどに膨らんでしまったのか。
「でも、あなたは彼に言い返しているんでしょう?」
私は穏やかに尋ねた。麻衣子は少しだけ視線を逸らす。
「ええ。もちろん。だって、彼が悪いんだから。やられたら、やり返すべきでしょ。」
麻衣子の言葉には揺るぎない確信があったが、その確信の裏側には何かが潜んでいた。
「それで、満足できたの?」
私はさらに問いかけた。麻衣子は眉をひそめ、何か言いかけたが呑み込んだ。その沈黙が、部屋全体に広がっていく。
「正しいことを言ったつもりだったけれど、なんだか虚しいの。」
麻衣子はようやく、本心を漏らした。その言葉には、自分の選んだ道に対する疑念が含まれていた。彼女は彼と戦い続け、言い返し続けたが、その果てに得たものは何だったのだろうか。
「彼に対して言った言葉が、あなたを本当に強くしてくれるわけじゃないよ。むしろ、心の重荷になるだけかもしれない。」
それでも麻衣子は言った。
「でも、何も言わなかったら、彼に好き放題されてしまうかもしれないじゃない?」
その声には、まだ疑念が残っていた。正当な反撃だと信じてきた。しかし、心のどこかで、その方法が本当に正しいのか、疑問を抱いている自分がいるのだろう。
「言い返すことで、一時的に満足感が得られるかもしれない。でも、その代わりに何かを失っていない?」
麻衣子は少し黙り込んだ。外の風がまた強くなり、窓が少し揺れる音が聞こえる。
「それに、言葉には力がある。相手に放つ言葉が、必ずしも良い結果を生むとは限らないのよ。彼に対しても同じことが言えるんじゃない?」
麻衣子は何かを飲み込みながら、じっと私を見つめた。
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数日後、麻衣子のオフィスに彼が現れた。普段は明るく笑顔で挨拶する彼だが、今日は違っていた。彼の目には、決意が宿っていた。麻衣子はその違いにすぐ気づいた。
「話があるんだ。」
彼の声はいつもより低く、静かだった。麻衣子は一瞬戸惑いながらも、椅子から立ち上がった。
「何?仕事の話なら、後ででも…」
彼は首を横に振った。
「仕事じゃない。僕たちの話だよ。」
麻衣子は、心の奥で何かがざわつくのを感じた。けれど、それを表には出さなかった。
「何を言いたいの?」
彼はゆっくりと深呼吸をし、麻衣子の目をまっすぐに見つめた。その目には、これまで感じたことのない冷静さと決意があった。
「もう無理なんだ。これ以上、続けられない。」
麻衣子は一瞬言葉を失った。そして、彼の言葉の意味が徐々に重くのしかかってきた。
「何を言っているの?」
彼は苦笑し、少しだけ肩をすくめた。
「麻衣子、僕たちはお互いを傷つけすぎた。言葉の応酬は、もう終わらせるべきだと思うんだ。」
「それって、私のせいだって言いたいの?」
彼はその質問には答えず、ただ静かに彼女を見つめていた。その沈黙が、麻衣子に重くのしかかる。
「僕はもう、これ以上戦いたくないんだ。」
麻衣子はその言葉に、胸が締め付けられるような痛みを感じた。だが、同時に彼の言葉が現実のものとして突きつけられ、否定することができない自分がいることにも気づいた。
「じゃあ、終わりにするってこと?」
彼は静かに頷いた。
「うん。お互いにこれ以上傷つけ合うのは、もうやめよう。」
彼は静かに立ち上がり、最後に麻衣子を見つめた。
「ありがとう、麻衣子。君は僕にいろいろなことを教えてくれた。」
その言葉に、麻衣子は何も言い返せなかった。ただ、去っていく彼の背中を見つめることしかできなかった。
そして、彼がドアを閉めた瞬間、麻衣子の心の中には、深い静けさと虚無感だけが残った。