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子ども時代の自分に対して、今してあげることはあるだろうか。


このnoteは、毒親育ちの明日に希望を届けるためのnoteです。




前回の記事「傷ついた自分との対話」において、
子ども時代の自分に対して何もしてあがられないことを
悔しい・申し訳ないと思っていることを書きました。




私自身、これまで意識していたわけではありませんでしたが、
目の前に、傷ついた幼少期の自分がいるとイメージしたとき、
自然と、「何もしてあげられなくてごめんね」という言葉が
出てきたのです。



今回は、このことについて掘り下げてみたいと思います。




1 子ども時代の自分に何かしてあげたいという気持ち


そもそも、
子ども時代の自分に対して何かしてあげたいという気持ちが生じたのは、
子ども時代の自分が受けていた心の傷や苦しみを
きちんと認識できたからこそ、
だと思っています。



数年前までは傷ついた子ども時代の自分という存在が、
その傷ついたままの状態で自分の中に存在していることさえ、
認めることが怖かった、
直視することができませんでした。



そのため、その子を癒してあげたい等という気持ちにもなりえませんでした。



しかし、
子ども時代の自分が傷ついたまま今も自分の中にいることを知り、
その子のために何かしてあげたいという気持ちになりました。



2 子ども時代の自分に対してできることはあるのか


もし可能なら、本当にタイムマシンにでも乗って、
傷つけられる場面から、
子ども時代の自分を救い出してあげたいというのが本心です。



大好きで愛情をもらえると信じていた親から傷つけられた記憶、
それほど辛く癒すのに時間がかかる傷は、
受けずに済むなら受けずに済んだ方がよいに決まっているからです。



でも、それができない以上、
今の私にしてあげられることはないのではないか…
だから、申し訳ない、悔しい、
幼少期の自分と対話した時、
私は心からそう思いました。



一方で、何もしてあげられないということしか
伝えることができないのでは、
幼少期の自分に対してあまりに無責任な気がしました。



そこで、必死にひねり出したのが、
「あなたの話を聞いて、
抱きしめて、寄り添うことはできる
それしかできないけど、一緒に悲しむことはできる。」
という言葉でした。



少し話が逸れますが、
この言葉は、実は、これまで弁護士として、
虐待を受けた10代の子どもたちと向き合ったときに、
その子どもたちにかけてきた言葉そのものでした。



虐待を受けている子どもの存在を知ったからといって、
その子を私が救ってあげることなど到底できません。
一人の弁護士にできることなんてしれています。
そのことを子どもたちもわかっているので、
どうせ何もできないでしょ?
どうせ私を見捨てるんでしょう?といった目で訴えかけてきます。



でも、そこで大人の私が同じ土俵に立って、
「そのとおりだよ、何もできないよ」と言ってしまっては、
せっかくSOSを出してくれた子どもたちは、
見捨てられたとしか思わないでしょう。



だから、私はいつも、虐待を受けている子どもたちに対し、
「でも、あなたの話を聞いて、寄り添うことはできる
それしかできないけど、寄り添って、一緒に何ができるか、
何がいいか、考えることはできる」と答えてきました。



その時の経験もあり、
おそらく、私は咄嗟に、
傷ついたままの子ども時代の自分に対し、
「あなたの話を聞いて、
抱きしめて、寄り添うことはできる
それしかできないけど、一緒に悲しむことはできる。」
と伝えたのだと思います。




3 子ども時代の自分に寄り添った先に得られたこと


そうはいったものの、
抱きしめて、寄り添って、一緒に悲しむこと、
それが本当に傷を受けた子ども時代の自分にとって救いになるのか?



セッションが終わってから私はずっと考えてきました。



まったく役に立たないとは思わないけれど、
一緒に悲しんだって、
結局傷は消えない、癒えないのでは…
という疑念がぬぐえず、
どうしたらもっと子ども時代の自分を癒してあげられるだろう・・・
とずっと考えてきました。


考えても答えは出なかったのですが、
そうこう生活しているうちに、
ある重要な変化がありました。




以前は、傷ついたままの子ども時代の自分は、
今を生きる大人の自分とは別の場所、
もっと言うと、とても遠い場所にいました。
おそらく、私自身が、遠ざけていました。



だから、幼少期の自分が刺激されると、
意識が遠いところに飛んで
自分が無力で何もできず、
心がボロボロのちっぽけな存在になったような気がして、
大人の自分が傷ついた子ども時代の自分に完全に乗っ取られる感じでした。
そのモードになると、
とても気弱になり、
思考も鈍り、
無力で、
電車に乗ったり人と少し会話するのもとても怖くなっていました。



しかし、子ども時代の自分に対し、
「抱きしめて、寄り添って、一緒に悲しむこと」、
を伝えてから、
傷ついた子ども時代の自分を
健康な大人の自分の中に取り込むことができたように感じています。



最近、子ども時代の心の傷が刺激されるある出来事がありましたが、
その時、これまでと異なる反応があって、気づきました。



その時、これまでのように、
意識が遠いところに飛ぶ感覚がなく、
今の自分の状態のままで、
その出来事をとらえることができました。
また、気弱になることもなく、
以前よりずっと短い時間で、
相手に対する怒りを感じることができ、
自分がちっぽけな存在だと感じることもありませんでした。




今の健康的な大人の自分が、
自分を傷つける人に対して、
怒りを感じている状態。
そして、その怒りを自分の気持ちとして
認識できている状態。
そんな状態に自分がいることに気づきました。



その時、傷ついたままの子ども時代の自分を、
今の大人の自分の中に取り込むことができた、
一体化することができた、
と気づきました。



それにより、
幼少期の私は、傷だらけのちっぽけな存在のままではなく、
自分を傷つける人にきちんと立ち向かうことのできる、
力をもった存在、尊厳をもった存在に生まれ変わることができた
と感じました。



これこそが、
大人の私が、傷ついたままの子ども時代の自分に対し、
抱きしめて寄り添い、
一緒に悲しんだ結果だと思いました。




4 子ども時代の自分の癒しがようやく始まった


子ども時代の傷ついた自分を取り込むことができたことにより、
ようやく、過去に受けた心の傷の癒しが始まったように思います。



今までは癒すといっても、
何をしてあげればいいかわからなかったし、
子ども時代の自分が今を生きる大人の自分と遠いところにいたせいで、
大人の自分がいくら癒そうとしても、
それが傷ついた子ども時代の自分には届かなかった気がします。



それが、今、一体化できたことで、
そして、
子ども時代の自分が力をもった存在に生まれ変わることができたことで、
変わりました。



大人の自分が過去の傷を癒すためにすることが、
ダイレクトに子ども時代の自分に届くようになった気がしています。



これから、癒しが本格的に始まっていくのだと感じ、
少しわくわくしています。



ただ、癒すって何をしてあげればいいの?という疑問もわいてきます。



それについては、また良いタイミングがきたら掘り下げたいと思いますが、
今の時点では、とりあえず、
あまり大げさに考えすぎず、
今の健康的な大人の自分が喜ぶこと、楽しいこと、
それを増やしていくことなのではないか、
と思っています。



小さいころから、親の目が怖くて、
いろいろなことを我慢してきました。
その積み重ねで、いつの間にか、
自分が何を楽しいと感じ、何を苦しいと感じるのか、
それすらわからなくなっていました。



だから、逆に、
今の自分が楽しいと感じること、
喜ばしいと思うこと、
そういうことを人生において貪欲に増やしていければ、
それが、心の傷の癒しへとつながるのではないかと思うのです。



今の時点ではなんとなく、そんな風にイメージしています。



以上、「子ども時代の自分に対して、今してあげることはあるだろうか」
でした。



傷ついた子ども時代の自分と対話をした結果、
私の内面がどのように変容していったか、
ということを掘り下げたいと思い、
書いてみました。



ただ、まだあまり対話したときから時間が経過していないため、
ふわっとした内容になってしまったようにも感じています。


また今後、時間が経過し、さらに内面が変容していったり、
色々な気づき等が増えていったとき、
必要に応じて、再度このテーマを取り上げてみたいとも思っています。


今回もお読みいただき、ありがとうございました。

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