日本人の『敬と恥』について

神渡良平氏の「安岡正篤氏 人生を拓く」に、『敬と恥』について書かれていました。

戦後、いわゆる進歩的文化人が鬼の首でも取ったように、「日本の文化の本質は恥の文化であり、人の目を気にする相対的な文化だ。それに比べ欧米の文化は、神の前に善か悪かを問う絶対的な文化だ」と述べ、過重なほどに自虐的批判を繰り返していました。

自分でも、そういう話を聞いてきました。

恥について安岡はもっと肯定的に見ています。「人の人たるゆえんは、実は道徳を持っておるということです。そしてそれは『敬』するという心と、『恥』ずるという心になって現れる。いくら発達した動物でも、敬するとか、恥ずるという心はない。これは人間に至って初めて神が与えたものなのです。

敬する心は、人間が限りなく発達を望んで未完成なものにあきたらず、より完全で偉大なものにあこがれるところから生まれてくる。これは人間特有の心理です。そして敬する心が起こると、必ずそこに恥ずるという心が生まれてくる。敬する心と恥ずる心とは相対関係のものでありますから、したがって敬を知る人は、必ずよく恥を知る人であり、恥を知る人は敬を知るである。ということができるわけであります」

恥の文化は、ルース・ベネディクトの『菊と刀』に書かれています。そこでは、「恥の文化」を人と人の間で成り立っている低位の横的文化、一方で、欧米の文化は、神と人、即ち創造主と人との関係が成り立つ文化であって、絶対者と通じている点での優位性を述べているように感じました。

これとは対照的なのが、ヘレン・ミアーズの「アメリカの鏡・日本」です。米国占領軍総司令部のメンバーとして46年に来日した米国の日本研究者ですが、この本は48年に出版された米国の対日占領政策論です。

この本は、アメリカにとっては不都合な真実が書かれているため、マッカーサーからしばらく出版禁止を受けていました。占領が終了した翌年の53年に、翻訳本「アメリカの反省」と題してやっと出版されました。しかし、当時はなぜかあまり注目されず、その後はその存在すら忘れられていました。

日本は開国後、欧米列強諸国の真面目な生徒であり、一生懸命に欧米列強の真似をして強国の一員となった。いざ、習ったことを実際の行動に移すと、欧米から激怒され、最終的には、東京大空襲や原爆投下など多くの国際法に違反する行為を受けた。日本の行動の背景には、アメリカが鏡として存在していた事を明確に示しています。

戦後、欧米に都合の良い歴史教育を強要され、多くの心ある知識人が公職追放されました。その隙間を埋めたのが敗戦利得者=いわゆる進歩的文化人ということになります。それは、今でも続いている面があるようですが...



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