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小説、詩、ことば

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よるが描いた世界
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#小説

失格

失格

 体だけの関係を保つのはゆるやかな自傷行為だね、と言われた。いつからか始まった右瞼の痙攣が不規則に続いていた。わたしの自罰的習慣に言及したのは、高校の同級生と再会して4年ものあいだ交際を続けている加奈子だった。加奈子は堅実で頭がよくて柔和でものいいがやさしくて、然るべき時にわたしの道を正してくれる、気高くて美しい女性だった。わたしが彼の存在を口にすると、加奈子は「常に少しずつ傷つきつづけていること

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四畳半のアパート

四畳半のアパート

 たぶん彼は、傷ついてくれない。サキホが彼と一緒にならない事実に直面しても、1ミリたりとも傷ついてくれないと思う。彼はそういう人間だから。はじめから世界を諦めていて、だから他人をコントロールできないことに対して怒りも悲しみも感じない。それは彼が片親で育ったことや鬱を患っていることに起因するのだろうが、そうでなかったとしても自分を大切に扱ってくれるかどうか、サキホには確信が持てない。彼の性質を理解し

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葬る

葬る

 たぶん、わたしは、何かの機能が欠如している、と、碧は思う。
 男が素直に自分の意に従っている姿を見ると、なぜだか涙が出そうでしかたなくなるのだ。それは、碧が頭をあずけると賢輔がこちらに肩を差し出すように、碧が「さむい」と言うと正平が後ろから毛布ごとつつんでくれように、そして今、碧が「抱きしめてもらっていいですか?」と言うと、目の前で悠人が手を広げて待っているように。
 中央線のオレンジのラインが

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あの時こうしておけばよかった。

あの時こうしておけばよかった。

 向かいに座る依澄と茉希は、早々に食事を終わらせてネットサーフィンをしている。二人ともカナヅチのくせに、多大なる情報の波には呑みこまれないらしい。水泳の授業終わり、肌に密着したスイムウェアが腹までずり下げられ、こぼれ落ちるいくつもの乳房を芳佳は想起した。女子高の着替えは警戒心がなく大胆だ。依澄は特に恥ずかしがらないたちで、その日新しくつけ始めたブラジャーのデザインの、どこがどういいというのを、実物

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多細胞生物なので僕たちは死にます。

多細胞生物なので僕たちは死にます。

「ラーメン食べて帰ろうよ」
 君がいうから僕はうなずく。
 型にはめられたようなありきたりの食べ物を頬張ると、湯気によって視界が曇らされた。
 美味しいねとも言わない。君は麺で塞がれた口を、咀嚼のためにしか使わない。
 なんのために、僕たちここにいるの?
「壮真はさ、私のこと抱ける?」
「物理的には」
「物理的にはとは」
「行為自体はできると思うよ」
「抱くって、行為以外になにがあるの?」
「心」

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面影

面影

 突起を押すと、懐かしいチャイム音が鳴った。のそのそと迫り来る気配を感じて、無機質な音が立つと、内側から無邪気な顔が現れた。
「いらっしゃい」
 私はまだ熱をもった土産を片手にぶら下げながら、扉の向こうに滑り込んだ。
 祖母は、”綺麗好き”という言葉から最も疎遠な人だった。汚いのが好きというわけでもないけれど、労力を費やしてまで生活環境をきれいに整えようとすることは一切なかった。だからいつも、床は

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太陽のない日

太陽のない日

 平日の昼間の海岸はすいていた。まして、今日のように風が強く吹く日は、水着を着ている人の姿もまばらだった。
 京子は濡れた砂浜にしゃがみこんで、足跡をつけて遊ぶ侑真とそれをつつむ背景をぼうっと見つめていた。灰を滲ませたような空が、世界に蓋をするように覆いかぶさっていた。本当ならば来たくなかったが、可愛い一人息子が窓の外を指さして駄々をこねるので、京子は仕方なく海岸へ足を運んだ。

 小さな体をめい

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イノセント

イノセント

 おとなになるって、どんなことだと思いますか?

 酒とタバコが楽しめること?
 セックスの味を、覚えること?
 責任を取ること?
 自分でお金を稼げるようになること?
 好きな時に好きなように、旅行に行けること?
 親の助けを必要としなくなること?

 わたし、大人になるって、これらの全部であって、ぜんぶでない気がするんです。

 私、ずっと考えています。大人って、なに?って。どうしたら大人にな

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もう月は綺麗じゃない

もう月は綺麗じゃない

「わたし、結婚するんだ」

 言葉は行くあてを失った。その辺に漂っては、今も還る場所を探している。それはそのうちに部屋の隅に吸い込まれた。僕はやっと彼女に視線を移すことができた。
 けっこん、するって。
 声にならなかった。あまりに唐突すぎた。いや、いつかこんな日が来るとは思っていた。でもそれは今日じゃない。今日じゃないと、彼女に顔を合わせるたびに僕は心の中で願った。甘んじていた。この状況が、ずっ

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濡れてる。

濡れてる。

 あなたは、雨の中からやってきた。

 その日は少し肌寒かった。担任の話がめずらしく短かく済んだので、早く帰れることが嬉しくて私は帰り道を足早に歩いていた。ちょうど商店街の入り口に差し掛かったところで、それは灰色の地面にまだらな模様をつくりだした。

 街の底はあっというまに黒に覆われた。私は仕方なくシャッターの閉められた店の、ビニール屋根の下に潜り込んだ。
 臨時休業致しますの文字が白い紙の上で

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