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葬る

 たぶん、わたしは、何かの機能が欠如している、と、碧は思う。
 男が素直に自分の意に従っている姿を見ると、なぜだか涙が出そうでしかたなくなるのだ。それは、碧が頭をあずけると賢輔がこちらに肩を差し出すように、碧が「さむい」と言うと正平が後ろから毛布ごとつつんでくれように、そして今、碧が「抱きしめてもらっていいですか?」と言うと、目の前で悠人が手を広げて待っているように。
 中央線のオレンジのラインが通過して、碧は息を止めた。目をつむった。目の前の男の腕のなかに飛び込んで、息をめいっぱい吸い込んだ。心地よい匂いがした、何の香りなのかはさっぱり判断がつかなかったけれど、碧は安心、を手に入れたと思った。
「じゃ」と、男は体を離して電車のドアに吸い込まれていった。帰省がえりの重たい荷物を、カラカラと引きずっていた。
 碧はその場に座り込んで、電車が発車するのを待った。少しずつ移動する長い箱に閉じ込められた、男に左手をあげて別れを告げた。碧は動けなかった。向かいのホームに座るおじいさんが、風に髪を靡かせて、静かに眠っていた。碧はエレベーターを一瞥するが、どうしても立ち上がる気になれなかった。涙が出てきた。先ほど、男に会う前にアトリエで描いてきた小さな水彩画を広げた。白いウサギだった。青の混じった灰色で陰影のつけられた、黒黒とした瞳をしている、体にぽってりと丸みを帯びた白いウサギだった。碧は何度も瞬きをしてそのウサギを眺めた。碧は、優しく撫でられた後頭部の感覚をふたたび思い出して立ち上がった。
 悲しくて仕方がなかった。心のなかで何度も、わすれる、と呟いた。忘れる、あの人をわすれる。水彩でウサギの輪郭を縁取るまえに、碧はもうひとつ、動物を描いていた。それは、大胆にも腹をさらけ出して仰向けに寝転ぶ、華奢な狐の姿だった。狐は瞼を閉じておきようとしなかった。狐は死んでいるようだった。「……けつべつ、」と、碧は口のなかでつぶやいて、そのやり方の露骨さに笑ってしまった。もう、決別したのだ。だから、悲しむ必要なんてない。悲しむ必要なんて、……丸めた紙で腿あたりを軽く叩きながら、碧は階段を降りた。このウサギがまだ生きているうちに、油画の下絵にしたかった。
 帰宅して悠人から電話がかかってきたが、両手がテレピン油でよごれていたのをいいことに、それを取り上げなかった。あなたが生きているうちに、と、碧はウサギを見つめながらただそれだけを思っていた。
 碧が「抱きしめてもらってもいいですか」と呟いたとき、悠人はなるべく人目のつかない場所を探して数歩、行き来した。結局、駅のホーム上に人目のつかなそうなところなどどこにもなく、目の前に来た車体が向かいのホームからの視線を隠した時に、彼は碧の方に腕を広げるのだった。その姿を見たときに、碧は確かに崩れ落ちそうになった。かなしくて、ただ悲しかった。
 出来上がった下絵は、水彩で描いた時よりも幾分かわいらしいウサギになった。毛並みは美しくつやつやとしていて、瞳も光の反射を受けて銀色に輝いているようにみえた。もう一度電話が鳴ったとき、碧は油から免れた左手の小指で画面をスワイプした。間を置いてから、「はい」、と言うと、水の流れている音が聞こえた。悠人は食器を鳴らしながら何とかと喋った。碧は水流と共に聞こえる声に笑みを溢して、もう一度だけ、さよなら、と、アトリエに眠る狐の死骸に別れを告げた。


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よる
←これ実は、猫じゃなくて、狼なんです。