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あの時こうしておけばよかった。

 向かいに座る依澄と茉希は、早々に食事を終わらせてネットサーフィンをしている。二人ともカナヅチのくせに、多大なる情報の波には呑みこまれないらしい。水泳の授業終わり、肌に密着したスイムウェアが腹までずり下げられ、こぼれ落ちるいくつもの乳房を芳佳は想起した。女子高の着替えは警戒心がなく大胆だ。依澄は特に恥ずかしがらないたちで、その日新しくつけ始めたブラジャーのデザインの、どこがどういいというのを、実物を見せながらクラスメイトに語るような子だった。一方で茉希は、豊満な依澄の身体に比べて自身の華奢なのを気にしているらしく、二人並んで体操服を脱ぐ際にはいつもきまってバツが悪そうな表情をした。芳佳はその習慣に気づいてからというもの、あまりにも愛おしくて茉希の顔が見たいので、彼女の着替えの際にわざと話を振るようなことをした。
「茉希の彼氏クン、元気なの?」
 スマホから顔を上げた依澄が突然言葉を発した。芳佳は二人の身体の幻想から逃れるためにパスタを頬張った。
「だよ」
「見せてよ、最近の写真」
「ない、撮らない」
「嘘つきなさんな、何も言わないから」
「つきなさんなって……」
「なに芳佳、なんか言った!?」
 身を乗り出した依澄の髪のさきが、油の残った皿の上にはらりと落ちた。芳佳がそれを掬おうとすると、依澄は企むような顔をして横髪を耳にかけた。芳佳は口内にあるものをごくりと呑み込んだ。
 ケーキが行儀よく並べられたショーケースを横目にお会計を済ませていると、依澄が出口のほうへ回り込んできて言った。
「あたし今日、乗りたい電車あって、もう出なきゃいけないから、行くね」
 芳佳は口のなかで小さく、え、と言ったが、音は距離に遮断された。茉希が手を振るので、芳佳がその真似をする。依澄はマフラーを大仰に巻き終えると、派手な音を立てて駅の方へ駆けて行った。残された二人は冷たい夜のなかへ放り出された。二人は歩きはじめた。
 暗い空気にコンビニのサインが煌々と照っている。芳佳は足元の敷石を熱心に数えていた、茉希の姿を視界の端にとらえながら。足取りが公園の方へ向かうが、茉希はそれに対して何も言わなかった。芳佳の半歩後ろをおもむろについてくる。「、」と息をすう音がきこえた。
「芳佳、さ」
「うん」
 歩きつづける。かすかな風は止む様子がない。古着屋を左折して、公園へつながる通りへ出る。
「最近、どう?」
「へ」
「どう、人生」
「んー……平和だね。」
「いいね」
「茉希は? 平和?」
 下の方で地面と砂利の擦れる音が聞こえた。芳佳は振り返った。
「……別れたんだよね。わたし」
「え?」
「わかれたの、彼氏と」
「あ、そう。そうなの。え、でも元気って」
「うん」
 茉希が歩きだす、芳佳を通り過ぎる。芳佳は微かに金木犀の香りを感じて、彼女のあとをついていった。
 二人は腰を下ろした。プラスチック製のベンチは、人体から温度を抽出してだんだんと同じあたたかさになっていく。遠くの方の裸の木の下で、人の影がひとつになったり、ふたつになったりしている。
 芳佳が茉希を振り向いた。まだ何も言わない。茉希の、衣服を身につけていてもわかるほど線の細いからだが、橙色にぽっかり包まれて頼りない。芳佳はまた、あやうく彼女そのものの姿を思い出そうとして、やめた。茉希を見詰めるのもやめた。
 目のまえの噴水は水面が風になびいてない。常緑樹の葉の擦れる音だけがする。依澄、と芳佳は思った。依澄は今ごろ、男に愛される準備をととのえている。何事にも、愛されることにも心構えが必要だ。
「依澄が好き?」
 湿度の高い、声色だった。怒っているのでもない、悲しんでいるのでもない、好意、というほど期待できるものでもなく、どちらかと言えば好奇、がもっとも近しい類の言葉だった。
「それは、友達として?」
「芳佳さ、私より依澄が好きでしょ、知ってるんだよ、二人がキスしてたこと」
 茉希の表情は歪んでいた。その横顔は、苦しそうで少し嬉しそうだった。溺れる寸前、ということばを、芳佳は瞬間思いついた。
「なにそれ、いつの話?」
「高2の時、世界史の移動するとき、誰もいない廊下で」
「誰もいないじゃん」
「トイレから帰ってきて、みたの」
「キスしてるからって、茉希より依澄が好きかどうか分からなくない?」
「してたんだ」
「だって見たんでしょう?」
「やめてよ、揚げ足とらないで。芳佳の言葉で聞かせて。」
「…………した、かもしれない、けどどんな流れかは忘れたし、覚えててもどうせ大した話はできない」
 遠くの方でいくつもの上履きが廊下を叩く音、それが建物の端に吸収されてゆき、横を見ると依澄のすばらしく整った顔、鋭い気性の、女の顔。マグネットみたいに引き寄せられて、気づいたら廊下を走っていた。男教師の襟足がやけに汚く見えた。
「卑怯だよ、そんなの」
「なにが。なんも卑怯なことないよ、何にもなかったんだよ」
「でも依澄のほうが好きなんでしょ?」
「どうして」
「私にも同じことできる?」
 芳佳は茉希に近づいた、茉希のくせ毛が接触することを拒み、芳佳は一度身を引いた。
 芳佳が素早く立ち上がると、茉希も食い下がってきた。噴水の淵に腰を下ろした。
「彼氏と別れたから、代わりをさがしてるの?」
「芳佳に代わりなんかできないよ」
「ひどいな」
「芳佳は特別なんだよ、なんで分からないの。なんで、ここまで言ってるのに分からないの!」
 茉希が、胸ぐらをつかんで芳佳を引き寄せた。不器用な接触だった。衝動がきて、そのまま茉希を投げ倒した。茉希は水の中に尻もちをついた。入水した茉希の上に被さり、スカートの裾から手を入れて、薄い腰を掴んだ。冷たさに身体が反射した。茉希の息を吸い込む音がした。苛立って手で口を塞いだ。
「依澄は魅力的で美しい女だ、それに比べてお前はどこにもいいところがない、そもそも依澄より勝れようとすることが間違っている、だがお前はこんなに哀しくて、こんなに愛らしい貧相な身体を、どうして隠そうとするのか、どうしてやめようとするのか」
 気づくと茉希の顔は水の底に沈んでいた。手を緩めるとそれを押し返すように体ごと水上にあがってきた。咳き込む身体をこちらに引き寄せると、一本の枝を抱きしめているような感覚になった。「まき」と芳佳は言った。
「わたし
 いま、
 すごく気持ちいい」
「うん」
「わたし、茉希のこと好きだったんだよ」
「うん」
「今思い出したよ」
「うん」
「わたしのこと好き?」
「芳佳」
 水浸しの彼女はさらに体積が減ったように見えた。いびつな顔立ちが人間らしく美しかった。茉希の青い唇は冷たかった。魚の肌を舐めているみたいだった。かさのない乳房もちぢれた髪もすべてが愛おしかった。
「よしか、」
と言いながら、茉希は泣きつづけた。塩素の匂いが、身体中に充満していた。


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←これ実は、猫じゃなくて、狼なんです。