四畳半のアパート
たぶん彼は、傷ついてくれない。サキホが彼と一緒にならない事実に直面しても、1ミリたりとも傷ついてくれないと思う。彼はそういう人間だから。はじめから世界を諦めていて、だから他人をコントロールできないことに対して怒りも悲しみも感じない。それは彼が片親で育ったことや鬱を患っていることに起因するのだろうが、そうでなかったとしても自分を大切に扱ってくれるかどうか、サキホには確信が持てない。彼の性質を理解してからそういう関係に及んだはずなのに、サキホにはカーテンの裏から透ける白い朝がどうしても、眩しかった。見ないふりをして、もう一度目を瞑った。
ふたたび目を覚ましたときも、彼はまだ隣で寝息を立てていた。男が事を終えた後にぐっすりと眠りにつくことは本当なのだとサキホは思った。彼の方に寝返りをうち、子どもみたいな顔をながめた。凛々しく整った眉毛のすぐ下にたくさんのまつ毛をたたえたおおきなまぶた、細めの通った鼻筋に、厚い唇は少しだけ白い歯をのぞかせていた。日中はそんなことも考えないのに、一緒に寝てみると彼の表情がなぜだか赤ん坊のように思えてくるのだった。頬を撫でると、それに応えるようにして唇を寄せてきた。サキホは、この人とは一緒になれない、と思った。
サキホが男と出会ったのはおよそ一年前、それだけが取り柄といえるほどの健康体で、免れることのできなかった体育の授業時、飛んで行ったピンポン球を探しに向かった白いネットのそばで、頑丈な物体とぶつかった。
「え、大丈夫?」
と、男は間の抜けた声を出した。サキホは運悪く鼻頭をぶつけて、冷気が顔の中心から全体にまわるような痛みを堪えて泣いていた。意思とは無関係に涙が溢れた。男が屈んでサキホの顔を覗き込んだ。彼は鷹のように鋭い眼をしていた、サキホはその瞬間のことを今でもよく覚えている。捕えられる寸前の鼠のような心地だった、というか、実際にそうだったのかもしれない。サキホはその数秒後に彼の逞しい腕に引き上げられ、初めて触れた父親とは別の男の身体を感じながら、この人になら抱かれてもいい、と思ったのだから。
それからの一年は長かった。彼とはサキホの通う大学の体育館で出会ったものの、彼はそこに通うものではなかった。サキホの大学と提携している複数の大学の学生から成り立つサークルの一員であり、毎日のように顔を合わせる仲になるまでにはかなりの時間を要した。そのサークルに入ってしまえば話が早かったのかもしれないが、サキホは体が丈夫なだけで運動が得意というわけでもなかった。彼がみせる駛走や跳躍は、だからサキホの目には鮮やかに、きらびやかに映った。
「わたしを抱き上げて」
と、サキホは彼に言ったことがある。彼は恋人よりほかの女性の体に触れることに抵抗を感じるらしかった(初めて会った時は緊急事態だったので接触としてカウントしないそうだ)が、あまりにも真剣な面持ちで頼み込むサキホに根負けして彼女を持ち上げた。宙に浮いた体はまるで自由で、サキホは足をばたつかせて喜んだ。このままベッドに押し倒してくれればいいのに、男は時間をかけて、二人の関係を恋人のそれに築き上げていきたいらしかった。
だから行為に及ぶきっかけを作ったのも、無論サキホの方からだった。サキホの頭はラップトップの画面を飾り立てる物語に一切集中できず、ただひたすら男の身体と自身との距離を緻密に計算していた、用いる適切な方程式も分からずに。
サキホが少しずつ左手を移動させると、いずれ男の腿に打ち当たった。中指でズボンの裾を捲り上げると、男はぎょっとしてサキホの顔を覗いた。ウサギのような瞳だった。嘘も罰も知らない、純真に塗れた瞳だった。サキホはその表情をみて、嫌な気がした。彼は自分だけが罪から免れようとしていた。口をつけようとすると、男はわかりやすく戸惑った。彼女がわざとらしく目線を外に逸らすと、男はサキホを振り向かせ、彼女の唇に噛みつくのだった。
他人のことなど好きになれないかもしれない、と、サキホは抱かれながら思っていた。男が安定しないリズムで腰を打っている最中も、サキホの頭には幼少期に過ごした家の裏にある茂みのことや、そこによく現れたミケと黒色の猫のことが思い浮かんでいた。結局猫はニ匹とも、近所のたばこ屋さんに引き取られた。サキホの母は極度の動物嫌いだった。ミケはカイ、黒はリクと、たばこ屋の奥さんに名付けられた。そのニ匹が今生きているかどうかさえ、サキホには分からなかった。激しい起伏のある男の体が、山のように迫っていた。サキホは彼の体の部分ひとつひとつを、丹念に撫でた。1、2、3、4……と、慣れない男の運動を数えながら。
男はサキホをもてなすことがなかった。身体の関係をもってから一度だけ、男がサキホのためにケーキを買ってきたことがあった。サキホがそれを食べない旨を伝えると、男は甘い菓子を頬張りながら彼女を抱いた。あまりにも乱暴で、サキホは声が上ずった。それから男はサキホに何かを施すことがなくなった。与える代わりに、彼女の体を求めた。
男に体を許してから、今日で七回目の夜になる。やっと手に入れた大きな肉体も、まるで存在していないみたいに質量が感じられない。彼はきっと、ここにはいないのだ。窓の方を向いて頑なにサキホと顔を合わせないことが何よりの証拠だった。早く「あなたとは一緒になれない」と、伝えなければならない。「わたしを幸せにできないあなたとは、一緒になれない」、と。でも、よく考えてみると、わたしを幸せにしてくれないから、一緒にいられるのかもしれない、幸せとは、息が詰まって、居た堪れなくなるものだから。サキホは無意識に父親の姿を思い出していた。父の使う黒い革財布、父のかぶる萎びたグレーのキャップ、父の飲む練乳の入った甘ったるいコーヒーに、父のかなでる「ただいま」の音の羅列。
「おかえり」
と、口の中で呟いた。父の幻想は砂の城を崩すように消えていった。
「……なに?」
男は仰向けに寝返りを打った。サキホは苛立って男の頬を強く撫でた。好意は届かないくせに、この男はひとりごとばかりを拾っていく。寂しい人、だから一緒にいられる。これが最後だと毎度思っても、「会いたい」と言われると体が麻痺したみたいに抵抗できなくなってしまう。朝焼けの空に父の声がする、「親父の顔は、二回みたことがある」、と。お父さんそれは、”二回しかみたことがない”んだよ、幼いながらに言葉が喉に詰まったことを覚えている。
「一回目は、七歳の頃。一緒に銭湯に来た親父がいつの間にかいなくなった。俺をそこに居合わせたおじちゃんのところに預けて、パチンコに出掛けたんだ。その後俺はひとりで家に帰ろうとしたけれど、迷子になった。おふくろは焦っただろうよ、今頃父親と一緒にいると思って安心して店開けてたんだから。それが帰ってみたら俺の姿がないんだよ。俺は近所ではものすごく可愛い子どもだって評判でな、人気者だったから、その日は近くに住む姉ちゃんのところにあがらせてもらってたんだ。姉ちゃんたちは俺のことをかわいいかわいいって言って、次はあたしんとこ、じゃあ次はあたしのとこって、本当大変だったよな。……二回目に会ったのは、親父の死に目だ。でももうよく覚えていない。親父も俺のことは覚えてなかったみたいだよ。」
父はたばこの空き箱をクシャッと手の中で丸めた。サキホはハッとして目の前の洗濯物を見つめた。男の匂いが、頭から降り注ぐようだった。
「大成、あたし、もうこういうの、終わりにしたい」
男は目を閉じたまま、
「うん。」
と、声をだした。