小さな裏切りについて
お風呂上がり、洗濯物を取ろうと外に出るとパリッとした空気がぼくを冷静にさせてくれた。
急に小説のような始め方をしてしまった。
それは多分、今から書こうとしていることをどう書けばよいのか定まっていないからなのだと思う。
書こうと思っていることがある。
一方でその文章を社会に出すということの責任とか、誰かを傷つけることが本意ではないとか、色々なことを考えながら、文章を書くべくスマートフォンを持ち込みながらお風呂に入っていた。
そして何度も書いては消してを繰り返して、お風呂を上がり、洗濯物を取りにベランダに出たら、外の空気が冷たくてパリッとしていて、深呼吸をしたらとても気持ち良くて、冷静さをひとつ取り戻すことができたので再び文章を書き始めた。
ぼくは今まで生きてきて、多くのひとの信頼を裏切ってきた。
自分自身でも気づける大きな裏切りはもちろん、自分自身じゃ気づけない小さな裏切りも含めての話だ。
過去を顧みることはできても、変えることも取り戻すこともできない。
だからこそ、実直に生きていくしかない。
今書いたことは多くのひとが共感してくれることば達だと思うし、普遍的なことなのだろうと思う。
人間関係を築いていく上で、清廉潔白に、絶対にひとを裏切らないということは出来ないと思う。
なぜなら「裏切られた」と思うのは他者であり、他者の価値観を変えることはできないから。
ぼくの身の回りにいてくれるひと達は本当に優しい。
それはきっとぼくに対して裏切ることを望んでいないし、ぼくもその人たちを裏切るということを望んでいない。
だから信頼がどんどん上積みされていく。
そしてもし、自分では気づけぬ小さな裏切りをしてしまった場合、相手が指摘してくれると信じているし、ぼくも誠心誠意謝ると思う。
一方で、ぼくの信頼をことごとく裏切っていくひともいる。
ぼく自身に向けられた小さな裏切りだけでなく、ぼくに向けられているわけではない社会に対する姿勢や態度にも小さな裏切りが発生していく。
多分、悪気はないし、ひとつひとつの行動に小さな裏切りを感じていないひとも多くいるのだと思う。
裏切られたと感じるのはぼく自身の主観だから。
多分、これが相性なのだと思う。
ひと付き合いの中で、仕事の中で、自分が何を大切にしているのか、その価値観が大きく違う。
【他人は自分を映す鏡】とはよく言ったもんだ。
もしかしたら、ぼくの信頼をことごとく裏切っていくひとからすれば、ぼくが信頼を裏切っているという風に見えているかもしれない。
とにかく流れに身を任せて、実直に生きていくしかない。感情論ではないところで生きる。
ひとはひとをよく見ている。
ぼくも見られている。
本当に良い学びの機会をぼくは得ている。