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ただ聴く力

俳優の現場にいるとよく「相手の台詞を聞け!」ということばが飛び交う。

「うーん、聞いてるんだけどなあ」と思いながら今度は聞くことに一生懸命になると身体がカチコチになって、演技自体がバラバラになってしまう。

聞くってなんなのだろう。

「サウンド・オブ・メタル」という映画の先行上映を観てきた。
ネタバレになってしまうので当然内容に関しては書かないが、映画の副題に「-聞こえるということ-」ということばが付随する。

日本のドラマで言えば「オレンジデイズ」が近いかもしれない。
聴力を失ってしまったバイオリニストを演じる柴咲コウさんとそんな彼女に恋をする男を演じる妻夫木聡さんが主演を務めた作品だ。

「サウンド・オブ・メタル」との共通点は音楽に携わっていた人間の聴力が失われてしまうということ。
そして両者ともそこに愛の問題が付随してくることである。

普段、ぼくは映画館に行って映画を観ない。
そもそも家でも映画を観ない。

映画を観るという行動に縛られてしまうのがどうも苦手なのだ。

しかしこの「サウンド・オブ・メタル」はぜひ映画館で観てほしい。
映画館のサウンドシステムによって、演劇でも味わえない擬似体験を得られてしまう。

自分自身の聴力が失われてしまったのではないかと錯覚してしまうほどである。

映画を観終わって、渋谷の街を歩く。

歩きながら、自分の耳に入ってくる音を確かめる。

車のエンジン音、映画の感想を話す声、鈴虫の声、遠くから聞こえる鉄道の音、耳の穴に入ってくる風の音。

街が音に溢れていることに気がつく。
そして自分の耳が聴こえていることに安堵する。

しかしそれと同時に

「この音、必要なのか?」
「この音が本当に豊かな音なのか?」

という思いもふつふつと沸き起こる。

耳が聞こえなくなったことによって、聴こえてくる静寂。
今までの自分は聞いていたけど、聴いていなかったのかもしれない。

舞台上で実はすぐそこに横たわっている静寂。

「相手の台詞を聞け!」ではなく

「そこにある静寂を聴け!」ということばの方が肩の力はふっと楽になる。

ぼくたちは意味を欲しがるけど、世界はすでに意味で氾濫している。
だからこそ説明ではない、ふっとそこにあるものに心を動かされるのかもしれない。

聞くじゃなくて、聴く。
この違いを味わった映画だった気がする。

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