ロシアは西洋化せず、西洋がロシア化する(のか)
6月初頭に行われた欧州議会選挙の結果が、近年かまびすしかった「エコロジーの時代」の終焉だとして話題を呼んでいる。日経ビジネスによると、2019年の前回選挙で「52→71」へと躍進した環境左派(GEFA)は、今回逆に53議席へと転落した。
2019年といえば、グレタ・トゥーンベリの国連気候行動サミットでのスピーチが世界的にバズるなど、今日につながる脱炭素化ブームに火がついた年だ。当時はあたかも人類史上の転換点のように報じられた流行は、わずか5年で幕を下ろしてしまったらしい。
それが意味するところは、なんだろう。たとえば2022年のウクライナ戦争の勃発時、日本で環境左派の潮流を代表する斎藤幸平氏(東京大学准教授)は、以下のように述べていた。
ロシアの天然ガスが人気商品になったのは、相対的にはCO2を出さない燃料だからだが、それで調子に乗ったプーチンが戦争を起こしてしまったので、今後は妥協せず「再生エネルギー100%」のヨーロッパになることでロシアに立ち向かうべき……ということだろう(本人はそこまで書いてはいないが、含意としてはそうなる)。
残念ながら、欧州はそうした選択をしなかった。むしろドイツの自国ファースト政党AfDは「プーチンと交渉し、ロシアのガスをまた買おう」と公約して、同国内での得票率2位へと躍進している(BBCの報道による)。
「もうロシアと組めばいいじゃないか」という声が、一貫してウクライナを支えてきたはずの欧州ですら高まるのは、かなり不気味な事態である。どうして、そんなことになったのだろうか。
逆説だが、最良のヒントはロシアの小説にある。1953年に単行本が出た『ロシア的人間』で、井筒俊彦はドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』から、有名なセリフを引いている。
もちろん引用の原文でいう「未来」は、キリスト教の救済を指す。しかし、実現可能性のはっきりしない謎の未来予想図を掲げて「だから、そのためにはどんな犠牲でも払いましょう」と説く構図は、近日までの環境正義の論調も同じだ。
「子供たちの未来のために」と言っても、その子供たちが今の生活に苦しむのじゃ意味がない――そうした気分は着実に、欧州のみでなく日本にも根を下ろしつつある。
「未来」の人口回復のために、子育て支援にカネ! カネ! カネ! カネ! と政権が連呼しても、いっこうに支持率が上がらないのは、いやいやそのお金、原資は「いま」給料から天引きするんでしょ、と国民に見透かされているからだ。
キリスト教の天国を招来させようといった、「麗しい未来」詐欺はもうこりごりだ。そうした気分が日欧を問わず、先進国で広がる先に待つものは、なんだろう。
ひとつの危険な潮流は、未来クルクル産業におけるライバルだった「暗黒の未来」詐欺である。やがてAI が人間を駆逐し、弱肉強食はいっそう強化されるのだから、もう他人に共感するのはやめて自分のことだけ考えましょうと謳う黙示録的な囁きは、今後ますます勢力を拡大しよう。
もうひとつのあり得る帰結は、反出生主義的なニヒリズムだろう。世の中はどうせ変わらず、そこで生きることは自身の無力さの確認に過ぎないのだから、ぶっちゃけ生まれてこない方がいい。生まれちゃったなら、なにもしないのがいい。
ウクライナ戦争の停戦ラインがどこに設定されるにせよ、西側世界の結束によって押し戻せるはずだったロシア文明の本質をなす世界観が、むしろ先進諸国の内側へ浸透してゆくのは皮肉なことだ。そして認めがたくとも、EUですらそれはもう始まっている。
共著『教養としての文明論』で詳説したように、ユーラシアの諸大国がその両端(日欧)に憧れた20世紀は、私たちにとって幸運な時代だった。とりわけ1989年に冷戦が終わって以降は、皮肉でなく文字どおりに ”Go West”(西側へ行こう)が歴史の潮流だと思えた。
しかし21世紀は、逆に彼らの発する磁場へと、私たちが呑み込まれつつあるのかもしれない。あるいはWest へと流入したEast が、いつしか社会の性格をユーラシア的に変えてしまうのだろうか。
ロシアや中国が、西洋的な意味で「民主化」する日が来ないことは、とうに共通の肌感覚となっていよう。むしろこれから目を凝らすべきは、私たちの社会の諸制度が中国化され、人間観がロシア化する未来である。
(なお、Pet Shop Boys が ”Go West” をカバーしたのは1993年。時代の雰囲気を後世に伝えるために、今後も「歴史モチーフのMV」を作る試みは委縮せず続いてほしいですね)