「詩人」になれない人文学者は要らない。
先日の浜崎洋介さんとの文春ウェビナーは、いつも以上に大いに盛り上がって楽しかった。視聴して下さった方、ありがとうございます。
その際もご紹介したとおり、「リベラルの教科書」として私が挙げる1冊目は、1951年の安部公房の短編「詩人の生涯」(この文庫本に入ってます)。安部文学が「わかる」って言える自信はまったくないんですけど、自分はこの作品が好きで好きで……。今も気持ちが苦しい時に読み返します。
以下、リンク先で連載1回目(途中までですが、作品の筋はわかる)を読んでくださった方のために、ちょっとおまけ。
番組でもお話ししたとおり、安部公房が亡くなったのは1993年の1月で、昭和天皇の病没からほぼ4年後。小学校で「天皇崩御」に接してその際の報道を覚えている世代の私にとって、作家さんが亡くなっても同じくらい新聞紙面が埋まる体験は初めてで、その後の人生が変わるほど影響を受けました(苦笑)。
「詩人の生涯」を読んだのは高校生のときで、佐藤忠男さんの本でアニメ映画版(1974年)が採り上げられていたのがきっかけ。当時は容易に見られなかった幻の作品を、後に非常勤先の大学の視聴覚資料室で見つけた際のよろこびは忘れられません。
アニメに比べて知名度は落ちますが、1960年には安部自身が脚色してラジオドラマにもなっています。原作の短編にあるモチーフを発展させた以下のシーンをずっと、2020年からの新型コロナウィルス禍の中で思い出していました。
この後に政府の対策委員会が「現在冷凍状態にある一般市民を凍死者と呼ぶことをやめ、目下冬眠中とその呼称の統一をはかる」のも、安部らしいウィットが効いています。コロナでは逆に、メディアがPCR陽性者を「感染者」のように呼び換えて、パニックを増幅する例が目立ちましたが。
たとえ危機が感染症から来るものであれ、国民を「お互いに疑いあおう」と煽る対策を採るべきではない。なぜなら、それによって社会的な信頼が失われる副作用の方が、感染を抑止する効果よりも遥かに大きいから。
思春期に読んだ安部公房の作品から、そうしたメッセージを学んで発信し続けた私に対して、さて大学で「人文学」なるものを教えていると称する人たちは当時、なにをしていたでしょうか。
彼らはふだん、「自然科学のように実利的な形で『すぐ』には役に立たないが、人文学にはそれとは別の価値がある。あらゆる物事を一から疑い本質を『深く』掘り下げる人文学の思考は、世の中の自明性が崩れた時こそ役に立つ」みたいなことを言っています。
で、まさに社会の前提が根本から覆る体験をしたコロナ禍の最中、彼らはなにかの役に立ってくれたでしょうか?
まさかとは思いますが、SNSで「医学の専門家の主張は疑わずにすべて従うのが当然! 大学教員という権威を持つ僕たちがマスク・リモート・ワクチンの徹底ぶりを披露しあい、見る人にも自粛の同調圧力を作り出すぞうおおおおおおお」なんてこと、してないですよね(笑)?
安部がこの作品の主人公を「詩人」と呼ぶのは、芸術的なポエムを詠めとか、意識高くクリエイティブに活動しろといった意味ではありません。一見すると自明な社会の前提の下で抑圧され、本当は存在するのに無視されているものに敏感であれ、と訴えるための呼称です。
喩えるなら自然科学とは平明な「散文」で、それはそれで大事。しかし散文だけでは取り零してしまうニュアンスを伝える媒体が「詩」で、人文学者はそちらのプロだということで、科学者とは別にポストが設けられてきたわけです、本来は。
だからいざというとき「詩人」になれない人文学者には、一文の値打ちもない。彼らの言う「自然科学とは異なる価値」を持つのは詩人のみであり、大学で人文学を修めたかは関係ない(実際に安部公房も、学部としては医学部卒でした)。
本人たちの自意識に反して、人文学者の地位はSNSで「勘違い」を起こすほどには不相応に高いのですから、もっと下げなければならない。むしろ彼らがこれまで詐取してきた「詩人」の栄誉を取り戻すところから、リベラル復権の道は始まると思います。