せめて私が私であれば。 『神に愛されていた』
胸に灯った妬みの炎は、私を内から焼き尽くした。
仮面で顔を隠した私を、神は愛してくれなかった。
せめて私が私であれば。
愛せなくとも、憎まずにはいられたかもしれないのに。
感想
「他者から好かれるため、あるいは嫌われないために嘘をつくことは、自分を好きになれないという最大の不幸を招き続ける」
たしか『嫌われる勇気』か『幸せになる勇気』(ダイヤモンド社)に書かれていた言葉だと思います。
自分は特別な存在だと信じたい。
誰もが愛してくれる存在でいたい。
そんな承認欲求の根本には、「自分を好きになれない」という不安が隠れているのではないでしょうか。
本作は「嫉妬」が大きなテーマとなっていますが、嫉妬深い人とそうでない人には、決定的な違いがあるように感じます。
それは「自分に自信があるかどうか」であり、もう少し加えると「自分が嫌いかどうか」だと思います。
主人公は才能ある若き小説家としてデビューしますが、後に現れる、まるで自分の上位互換のような新人作家に劣等感を抱き、さらに自分が望むものをひとつずつ彼女に奪われていくうちに、妬みと惨めさで心が壊れていきます。
たしかに二人には才能の差がありましたが、それ以上に決定的だったのは、自分で自分を認めているかどうかの差ではないかと感じました。
自分が嫌いだと、他人が羨ましく、妬ましくなります。
また、立場や交友関係、才能といった、自分の存在を肯定してくれるものにこだわるようにもなります。
その後因縁の相手となる新人に出会った主人公は、嫉妬を胸の内に秘めて、何食わぬ顔で話しかけることを選択しました。
けれど、本当にそれでよかったんでしょうか。
生まれてしまった負の感情を隠して、ひとり苦しむことが正しかったんでしょうか。
自分を愛せないのは、自分に嘘をついて生きているからだと思うんです。
誰もがきれいな感情だけ抱いて生きているわけじゃありません。
なにもかも曝け出す必要はないとしても、なにもかも取り繕おうとすれば、できあがるのは外ゆきの仮面です。
仮面をかぶって人から愛されたとして、それで不安はなくなるのでしょうか。
今度は仮面の下の素顔が晒されることに、怯えるだけではないでしょうか。
曝け出すこと。隠すこと。そのどちらも痛みを伴います。
それならば、はじめから正直に生きるほうが、まだましだと思うんです。
嘘をついて自分を嫌いになるくらいなら、正直に生きて、きれいではない自分も受け入れて、愛するとまでいかなくても、認めてあげるほうがましだと思うんです。言ってやればよかったんですよ。「私はあなたが憎い」と。
物語の終盤で、主人公のファンから、こんなメッセージが届きます。
価値観なんてひとそれぞれです。
他人からの愛なんて、誰にもコントロールができません。
それならせめて自分だけは、どうか自分を嫌わないでほしい、自分が自分であることを認めてほしいと思うんです。
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