【157】「彼女いますか」という質問の暴力(を作動させたアマチュア講師の反省)

人にものを教えるということには、大いに責任が伴われますし、私などはひねくれているものですから、人にものを教えたい欲望というのは非常に危険なものであると思っています。

なぜならそうした欲望は、自分が人より優れているという確信と同時に、教えるということに内在するこの権力や権威を利用することの欲望と必ず隣り合わせにあるもので、無邪気に教えたい・教師になりたいと言う人、「生徒(学生)の可能性を伸ばしたい」などと目をキラキラさせながら言っている人ほど、そうした教師という地位に内在する要素に関して無自覚だからです。

権威や権力を欲するのは別によいのですし、これは良い教師であることと両立可能です。権威や権力をうまく使える・権力と上手く付き合ってゆける教師こそが良い教師です。言い換えれば、権威や権力への構造的な欲望——これは、「権威が欲しい!」と言える、ということではなく、教師と生徒の関係においては必ず権威とそれに対する服従が刻み込まれているということです——を意識の明るみに出さなければ、教師の実践においては重大な問題が生じうるということです。

教師が権威や権力を持たないというのは不可能ですし、教師がほかの年長者や友人と同じように振る舞うべきだということではありません。

教師というものはどうあっても極めて強大な権威と権力を手にするもので、その点を強いて偽装したり、あるいはその点に無知・無自覚でいたりすれば、主に教育を享受する側にとって過酷な帰結が招来される、ということです。

「教えたい」のであれば、自分がどのように権威と権力を用いるかをこそ慎重に考えるべきです。「しかたなく教える」場合のほうがときに良い教師であるのは、「教えたい」よりも「どう教えるべきか」をプレーンに考えるからで、教師という存在のステータスそのものに目が行きやすいからではないでしょうか。

自分が権威と権力を持ってしまっているという事態に対する徹底した意識=反省的思考こそが、教師が自ら薄氷の上を歩んでいことを知り、そのうえで繊細に歩をすすめてゆくための足がかりとなるのだ、と、ひねくれものとしては考えています。


教師の権威に関する以上のようなことは私が常に思い描いているところですが(というか専門にも関わるところですが)、私はそんな権威と権力とかのことを考えられるようになる前にも、本を読むための金を稼ぐために、(仕方なしに)予備校やら高校やらで英語を教えていたことがあります。

その時の経験を通じて、自分が常に教える側として不十分であることを知ると同時に、啓発的な経験を得ることができた、ということは、当時の生徒にとってみれば迷惑な話だったのかもしれませんが、私にとっては大きな財産です。

昨日書いた内容とも関連しますが、やはりコミュニケーションそのものの難しさや、「それぞれの人間には異なる前提がある」ということを身をもって知ることができた、というのが極めて大きな成果ではないかな、と思っています。


そのことに関して一つ思い出されたのが、ある高校の勉強合宿に同伴した時のことです。

東大生の講師を私以外にも何人か呼んで行う形式の勉強合宿でした。

もちろん東大生は(一律に)教えるのが上手いわけでもなく、教科内容について日頃から研究しているわけでもありません。私自身、教えるプロでないということは自覚していましたし、いきなり顔も知らない人間がやってきて、授業だけやってはい終わり、というだけでは、教育効果としても低く止まると思われました。

とはいえ、とりあえず日本ではそこそこ優秀だとされている大学ですから、そこに通っている人間を呼んできて喋らせて授業をやらせるというのは、生徒に臨場感を与え、やる気を高めるための方策だったのでしょう。

1時間半とか2時間とかの講義1発でできることというのは、とうぜん限られていますから、寧ろわざわざ教えることに長けているわけでもない東大生の講師を呼んできて授業をさせる目的というのは、東大生を身近に感じてもらって勉強に対するやる気を出してもらうということが主たる目的である、という解釈を概ね共有しつつ、臨みました。


授業それ自体に関して手を抜くつもりはありませんでしたし、授業そのもののプロセスを普段の勉強の仕方を見返す機会にしてもらおうとも思っていましたが、

少なくとも親しみを持ってもらおうと思って、授業の前に質問の時間をもうけたのですね。

ここで、かなり痛い目を見ました。

私は3日ほどの合宿で1コマ×5クラス担当して、授業の前に必ず、「何か質問があったらどうぞ」という風に質問を促したのですが、どのクラスでも最初に出てきた質問は同じものでした。

「彼女いますか」という質問だったのですね。

私は別に、自らに恋人がいるかいないかを殊更に言い立てたり隠し立てたりするつもりはなかったので、別にその場で、他ならぬ私に対してその質問が振り出されたのが嫌だったというわけではありませんでした。

しかし、初対面の人間に対して振りだす質問として適切かな、ということは引っかかりました。

なので、迷惑にも脱線して、哲学(?)の授業をしたわけですね。次のような感じでした。

——質問ありがとう。その質問に答える前に、その質問を初対面の人間に投げかけるということがどういう意味を持つのかということを考えてみたいと思います。初日の全体集会で、僕が哲学をやっているということは言ったかもしれないけれど、発言が持つ意味とか、言葉の内容とかを地道に考えるのが、哲学では大切なんですね。そういう意味では、哲学は日常的なものなんです。

——まず、「彼女」とは何ですか。仮に、性的な関係と特別な感情的交わりを含意する異性のパートナー、ということで理解してみましょう。勿論「性的」とは何か、「パートナー」とは何か、などという問題はあるけれども、当座これでいいことにしましょう。

——このときに、まず、私が同性愛者だったとしたら、こうした質問をどう思うか、ということを考えてみてください。私が本当はどうか、ということはどうでもいいです。わざわざ尋ねるべきことでありません。その場合ですね、先ほどの質問は、「持つべきパートナーは異性でなくてはならない」という社会的な約束事(ちょっと硬い言い方をするなら「規範」ですね)を押し付けることになるんです。

——異性と付き合うなんて当然じゃないか、と思った人もいるかもしれませんね。でも、皆さんは同性愛者が存在するということを知っているはずですし、身体と心の性別が一致しない人がいるということも、ドラマや映画や本を通じて知っているかもしれません。そうした、異性愛者でない人を差別したいですか。もちろん「はい」と胸を張って言う人はいないと信じたいし、内心はどうあれ、差別してはいけないとみんな思ってくれていると思う。

——自分の身体の性別と、「自分は男性だ」「自分は女性だ」という認識(これを性自認と言います)が明確に一致していて、性的指向(どの性を対象とするか)が異性へと向かっている、という人(「シスヘテロ」と言います)はもちろんわりと多いのですが、そうした人の割合はたったの9割だという調査結果もあります。それに、生きていく・人と関わるなかで変わったり気づいたりする部分もあります。皆さんの中でも1割は、いわゆるシスヘテロでない、と考えられるわけです。はっきりと自分がシスヘテロでない、と主張するかどうかはともかく(主張するかしないかは繊細な問題ですから、本人に委ねられるべきです)、いるわけです。そういうクラスメイトを、傷つけたくはないですよね。

——でも、先ほどの「彼女いますか」という質問は、無意識の差別の表れなんですよ。……別に質問がダメだったわけじゃない。怒っているわけでもない。僕たちが使う言葉は色々な無意識の前提をベースにしているもので、今回は「持つべきパートナーは異性でなくてはならない」という無意識の前提がはたらいてしまったわけですね。まずはこの点をしっかり抑えたいということです。

——それに、もうひとつの前提がありますよね。多分君たちの周りには「彼氏」や「彼女」のいる人はまだあまり多くなくて、それでも大学に入ったり社会に出たりすれば当然そういう関係の人ができて、ゆくゆくは結婚する、と思っているのかもしれません。

——それはそれで大きな前提だけれども、その背後には、成熟した人間は一人のパートナーを持つべきだ、「愛」にもとづいた関係を持つべきだという前提がありますよね。これは同性愛者でもときに強く持っている前提、というか、いってみれば偏見です。

——考えてみてください。私自身が「愛」ということを受け入れられない人かもしれませんよ。太宰治の『人間失格』とか、わりと最近で言えば(と言っても10年くらい前だけれど)、野村美月『文学少女』シリーズの第1巻とかで描かれている通り、人を愛することができないタイプの人、よく言われる「愛」のきまりに乗っかれない・乗っかりたくない人もたくさんいます。おおっぴらに言わないだけです。先ほどの質問は、私のような人間が存在することをそもそも許さないぞ、という宣言にならないでしょうか。

——つまり、「彼女いますか」というあなたの質問の中には、いくつもいくつも、意図せず特定の人間を傷つけてしまう可能性があったわけです。

——勘違いしてほしくないのは、あなたを責めたいというわけではなくて、考える機会にしてほしいということです。どこまで考えても、配慮しきれない面はあるし、どんなことを言ったって、傷を受ける人はいます。テレビドラマで一家団欒のシーンがあれば、家庭環境に恵まれなかった人は傷つくかもしれません。よく問題になるけれども、誰でも見ることきできる場所に卑猥な本や広告があると、それを見ない自由が侵害される、という考えもあります。これはメジャーな例ですが、人によって「傷つきスイッチ」は様々です。

——大切なのは、その都度自分の言葉や表現が持つ意味を考えて、それが適切でないということに気づいたときに訂正する勇気を持つことなのかもしれませんね。私は誠実であるということを人生の目的のひとつにしていますから、この点はなあなあで済ませてはいけないと思って、ちょっと長く時間をもらいました。聴いてくれてありがとう。

……というふうに質問を展開させていて、えせソクラテスのような感じにやったわけですね。

必ずしも異性をパートナーとする必要はないということをまずは言わねばならないと思いましたし、さらに、成熟した人間であれば必ず(同性であれ異性であれ)感情的紐帯によって結ばれたパートナーを持つべきだという観念を宙吊りにする必要があるように思われて、そうしたということです。

もちろんそうした観念を持っても良いのですが、持たない人間・持ちたくない人間もいるということを十分に理解しなくてはならないな、と思ったわけです。

相手は高校生で、その多くはあと数年でもっと多様な人々の集まる大学に行くことが予定されているわけで、しかも一定の進学校に通っているのですから、そうした他者に対する想像力というものを持つだけの柔軟な知的基盤はあるわけです。

であるからには、私は、無自覚に人を傷つけかねない問いのお手本のような「彼女いますか」という問いを行うような、自分たちの持っている前提というものを疑ってほしかったわけです。

これはまさに哲学の営みですし、別に私は間違ったことをしたと思っていませんし、その場にいた人たちも、私が別に怒っていたわけではないということは理解してくれたと思っています。

内容をどれくらい理解して、どれくらい真剣に取り合ってくれたのかはわかりませんが、問題集の抜粋の解説に基づく授業内容なんかよりもよほど覚えておいてほしいことでした。


夜の飲み会で、他の教科を担当していた他の東大生の講師にこういう話をしたら、彼らもやはり——私の他も全員男性だったのですが——彼女いますかと聞かれたらしく、しかし私のようにその問いに対して問いを返すこともなく、淡々と答えたようで、私が子供じみているのかな、ということを思い知らされました。

まあ、それはそれで良いのです。ともかくこうしたやりとりの中で生徒に知ってほしかったのは、広くジェンダーについての(というか、自分とは異なる他者を想定し思いやることについての)ごくごく基本的な考え方でした。


……ここまでは話の半分に過ぎません。

帰りのバスの中でウトウトしていると、私の心に後悔が兆したのですね。

言ったことそれ自体は誤りではなかったかもしれないけれども、きっと「彼女いますか」という問いそれ自体も、やむにやまれぬ問いだったのではないか、と思われてきたのです。

そもそも良く知らない、けれども教師より歳が近い、親しみを持っても良さそうな(?)男性が目の前に現れて、「質問はないか」などと言いはじめたら、「彼女いますか」という質問はまぁ、高校生の目には妥当なものに思えるだろうな、と思い直されたわけです。

というか、それぐらいしか選択肢がない、というのもよくわかる話だと思うのです。

どういうことかといえば、どのくらいの進学校かにもよりますし、学年やクラス個別の事情にももちろんよりますが、いくら勉強合宿であるとはいえ、勉強法だとか、あるいは大学の様子だとかについて、普段から机を並べて同級生が周りにいる中で堂々と尋ねるのには、いささかの気恥ずかしさがあったのかもしれません。

とすれば、やはり彼らが思い描くような華やかな大学生活というものに関連する限りで、「彼女いますか」という問いを投げかけざるをえなかった、というのが、実情だったのではないかなと思われたのです。


もちろん、「彼女いますか」という問いを投げかけてきた高校生に対して、そうした問いの意味を掘り下げるために問いを返して私が言った内容は、必ずしも間違いではなかったと思います。

何であれ質問をするときには、あるいは広く言って人と話すときには、その人が自分は持っていない前提を持っているかもしれない、ということを意識しなくてはならないし、それはとても難しいことだ、ということは、決して間違ってはいなかったと思います。

しかし見方を変えれば、ある意味で私のしたことは、立場の弱い高校生を罠にはめて、それにかこつけて自分の言いたいことを2、3分ペラペラと喋っただけだったようでもあります。

それに、いまになってよく考えてみれば、私はそんなことを飽きもせずに5クラス分やったのですね。

「みんな彼氏とか彼女とか、そういう話が好きだなあ」くらいにぼんやり思っていましたが、1度目か2度目で気づけよ、と。

変な質問がでてくるのは質問者以前に環境を作る側(=前で喋っている側)のせいでもあるだろう、と。

同級生と牽制しあう必要があり、また見知らぬ少し年上の、避けがたく権威を持った人間がいるときに、しかも何か質問をしなくてはいけないというような空気が、当の年上の人間——私のことですが——の手で作られたときに、どのように対応しなくてはならないか必死で考えた末の、「彼女いますか」という問いであったのかもしれないだろう、と。

であれば、私がまず権威を以ってそうしたある種強迫的な環境を作ってしまったことをこそ、反省しなくてはならないなと思ったのです。

こうしてきちんと振り返りなおして改めて言葉にすることができたのも、冒頭に見たような権威に関する(一定の読書を踏まえた)考えあってのことで、いやはや哲学史や思想史には「実用的」な面もあるな、という思いを新たにするわけです。


高校生は高校生で、「彼女いますか」という問いがアブナい問いであること、そう問われて痛みを覚えるタイプの人間が存在するということに思いを致せていなかったわけですし、

私自身は、高校生が置かれている特有の条件というものに十分に思いを致すことができずに、「何か質問があればどうぞ」などと言って、鷹揚なふりをしながら事実上は罠にかけてしまったのです。

こんな過去の告白は、あまりしたいものではありません。思い返されたのでしてみたということです。


以上から、私が情けない面倒な講師だった、ということを読み取っていただくならそれはそれで良いのですが、翻って皆さんにも似たような経験はないかな、と思われるのです。

皆さんも、他人が持っている事情や前提を慮ることなしに、何かを決めつけてコミュニケーションを進めてしまったことはないでしょうか。

いえ、ないはずはないのです。

ないとすれば、それは(ただでさえ人的交流の希薄な私以上に)世界が狭すぎるか、既に卓越したコミュニケーション能力を身に着けているか、のいずれかですが、どちらもあまりないでしょう。

予定を決める際のささやかな行き違いも、どうしてかカンにさわる上司からのメールの文面も、友人やパートナー——この語が何を指すのかはともかく——とのいさかいも、ひょっとしたら誰かのせいだと言うことはできるかもしれないけれど、広く見ればそれぞれに固有の文脈同士の衝突に由来しているわけで、語弊を恐れずに言えば、あなたのせいでもあるのです。

であれば、自分でできることは最大限やっておく、つまり相手の事情は最大限に慮る、ということが必要だということには納得がいくはずですし、仮に衝突があれば即座に・積極的に軌道修正を図る必要がある、ということも、おわかりいただけるのではないでしょうか。

コミュニケーションにおいて、事故はつきものです。しかし、「じこはおきるさ」と思って事故を繰り返しながら進んでいくばかりではなく、平素から「相手はどういう前提を持って(この言葉を発して)いるのだろう」と考えてみる習慣は、事故そのものの件数を減らすことに多いに寄与することでしょう。

こうした習慣は、抽象的なようで、極めて有用なものであるように思われるのです。

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