【160】「自分語り」をしたい気持ちを認め、戦略に組み込む

頼まれてもいないのに時宜を得ない自分語りをする人を揶揄し批判する風潮があり、最近ではそうしたプラクティスを(「隙あらば自分語り」の略であるところの)「隙自語」というようです。自分語りをする自らを笑い、あるいは他者に注意を促したり軽く嘲ったりするための言葉のようです。

もちろん、相手や場の事情も考えずに自分の武勇伝や自分の過去の体験談などペラペラ喋るのは、褒められたことではありません。ブログなどを持って勝手にやっているのであれば良いのですが、他の人がメインで発言をするはずの場にしゃしゃり出てきて自分の言いたいことだけを書き散らかす人は、迷惑行為をはたらいているということになります。

そんなことはみんなわかっているはずなのに、そういった望まれぬ「自分語り」をする人は本当にたくさんいます。

Twitterで、たくさんリツイートされたツイートにいきなりほとんど関係のない自分の事情について書き散らかした返信を付ける人の例は珍しくはありません。

最近だと、飲み会などというものもめっきり減ったのかもしれませんが、宴席で、何を話していても表立って忌避される立場にない年配の方々が、たまに自分の過去の武勇伝や教訓話などを延々と語ってくださることがあります。

本人は良かれと思ってやっているのかもしれませんが、やられている側にとっては迷惑である、という場合もあるかもしれませんね。

私も、慶事・弔事で親戚が集まったときに、自分の職歴や苦労話などを語ろうとする年配の親戚はいました。聞く人が聞けば楽しかったのかもしれませんが、当時の私は今以上に人付き合いというものが苦手でしたので、お手洗いに立つフリをしてずっと外で本を読んでいたのを思い出します。


ともかく隙あらば自分語りをしてしまう、自分について時には聞かれてもいないのに語ってしまう、そういう傾向が人間に備わっているというのは、相当程度事実であると言ってもよいでしょう。

もちろんそうしたくない人間もいるかもしれませんが、したい人はやはりかなりの数あって、その中でも、自分語りをするための適切な場を見つけられていない人が無視できない数いる、というのも事実でしょう。だからこそ、不適切に語り散らかす人が後をたたないのだと考えられます。

自分語りが特に時宜を得ないものである場合、情けない・笑える・迷惑なものとして扱われるのは事実でしょう。


とはいえ、人間が自分語りをしたいものである、という事実をはっきりと認めたうえで見えてくるものも、少なくないように思われるのです。

つまり、自分語りをしたくなるという傾向が割と多くの人間に備わっている、ということを踏まえるのであれば、寧ろこの避けがたい傾向性とどう付き合っていくか、ということが課題となるように思われます。

それは一方で、先ほども触れたように、自分語りをする場を設ける・自分語りをさせてあげる、ということで生まれるビジネスモデルの類において、既に一定程度実現されているところでもあるでしょう。

体験談の類を集めるウェブサイトは今でも盛んに運営されているのです。多くの場合体験談というものはデータ量を要さないテクストという形式によるためか、私がインターネットを始めた2000年代初頭にも、かなりの量ありました。

実際、ブログを書いている人なんかも、意識しているかどうかはともかくとして、「自分語りをしたいんだろう」の一言で済ませてしまえるような場合も多いわけです。もちろんこれは極めて粗雑な説明ですが、ともかく、そもそも自分語りをしたいというのは悪いことではありません。ブログであれば、(人を騙したり、種々の法を犯したりということがなければ)誰にも迷惑をかけているわけではありません。

体験談などを投稿するのは多くの場合無料ですが、もちろん、プラットフォームを提供する側は、広告費でサーバー代(や人件費)を稼いで、利益を出そうとしているのですね。

あるいは新聞などのお悩み相談は、本当に悩みを解決したいから投稿する、という面もあるかもしれませんが、吐き出してスッキリしたい・自分語りをしたい人々がいるからこそ成り立っている側面も無視しがたいものだと思われます。

人間の本性というものは大して変わりませんから、自分語りをしたい人間を対象にしたビジネス上のアプローチというものは、実に正道と言えるのではないかと思われます。


あるいは逆に、他人に自分語りをさせるのはもちろん良いとして、自分にも「隙あらば自分語り」をしたい気持ちがあることを正面から認められるのであれば——これは、あなたがそうを認めるか認めないかということではなくて、若干の痛みを覚えながらも「そうかもしれないな」と思えるか否かということです——、単に自分語りを行うだけではなく、寧ろ戦略的に自分語りを行うことを考えてもよいのかもしれません。

ブログやTwitterであれば、基本的には他人に迷惑をかけないようなかたちで、いくらでも自分語りの場を作っていくことができます。

しかし単に無節操に、許容される範囲の自分語りを積み重ねていくだけではなく、寧ろ戦略的に自分語りをする場・見せたい自分を見せる特設ステージを作るということも考えられるのではないでしょうか。

自分語りというものは、自分という人間の経歴や生活について語るということですから、少なくとも一人の人間に関する話です。ということは、他の人間にとっても、何らか面白くなりうる部分はあるということです。人間は人間である以上、少なからず共通点を持つからです。

であれば、寧ろ戦略的に、他の人間の興味関心を巻き込めるようなかたちで自分語りを行ってみるのも良いのかもしれません。

これはある種の仲間意識を読み手に与えるということであり、自らを中心とした磁場を形成することです。ある種のアーティスティックな生存戦略のあり方は、実にこの方針を必要とするのではないでしょうか。 

例えば、広い意味での自分の経験を通じてそこから抽象化された教訓を引き出してくるということが、自分語りを一定程度戦略的に行って他人を巻き込むことの一つのやり方でしょう。というかこれは、私がやりつづけていると自負していることです。

あるいは、自分が語ることで打ち立てた虚構としての自分の像を通じて、そもそも自分に接してくる相手を選別することもできると考えられます。これはもちろん、必ずしも自分語りでなくても良いわけですが、自分が普段からどんなことを考えているかを喧伝しておくことで、変な人間がよりついてくるのを避けることができるのではないか、ということです。

例えば、銀座に店を持って、高品質の品物を高く売る、という方針を世間に知らしめているブランドショップなどであれば、私のような(?)貧乏人をはじめから排除して経営してゆくことができるでしょう。

山手線のガード下の居酒屋であれば、そうした居酒屋はごちゃごちゃした雰囲気を好む人間の目を惹きつけることになり、逆に私のように(?)落ち着いたところで飲み食いしたいという人間をあらかじめ遠ざけることになるでしょう。

こうした例は「自分語り」とは若干ずれることかもしれませんが、自分語りを行うことによっても自分がどんな人間かということをあらかじめ知らしめておくことはできるのであり、そして広義の人間関係というものを簡素にすることができるのではないか、ということです。

つまり言葉をある種のイメージ戦略として利用することができるのではないか、ということです。


以上に見てきたのは、自分語りをしたいというわりと普遍的な気持ち、あるいは欲が私たちに備わっているとして、それをどのような方向へと導き、積極的に活かしていくことができるかを考えることはできるよね、ということでした。

もちろん私は例を述べましたが、皆さん個人個人で、自分語りしたいという自分の、あるいは他人の欲をどのように積極的に活かしていくことができるかしら、という問いを回していただきたいなと思ったわけです。

この作業は、特に人間の言語表現に関わる領域を主戦場とされている方であれば、一度は考えてみても良いことであるように思われます。


なるほど物は言いようで、「理屈と膏薬はどこにでもつく」ということはをまたまた思い出すことになりましたが、ともかく「自分語りをしたい」というような、割と多くの人間にとって避けがたいものであるような精神的傾向については、「どのように善用できるか」を考えてみる必要があるのではないか、ということでした。

■まとめ
・「自分語り」をしたい人は、結構な数いる。
・その中にはあなたも含まれているかもしれない。
・自他の「自分語り」をしたい気持ちを善用できないか考えてみよう

関連記事:【6】言語の破壊的効果と治療的効果:自らを見出し、自らを救う(Vanessa Springora, Le consentement)
→「自分語り」のまた別の側面について述べた記事です。

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