白魚になりたい
もうすぐ米寿を迎える祖父は、隔日ほどのペースでLINEをくれる。
遠方に住む親戚一同11人が集うグループラインに、他愛もない日常の出来事から、社会情勢についてまで、幅広い内容のメッセージが通知に流れる。
まるで短いエッセイのような、そのくらいの文量で、吹き出しの中に彼の抒情を凝縮する。
わたしは祖父のLINEが大好きだ。と言うより、彼の紡ぐ言葉が大好きだ。
『ゆっくり目の電車に乗って、ゆっくり目の息をして、どうぞ行ってらっしゃい。』
いつぞやに、父がいつもより遅い電車に乗って出勤したときのことを話したとき、祖父はこのように返した。
このメッセージを読んだと同時に、深呼吸をしたのを覚えている。
まずわたしが毎回感動するのは、誤字脱字のない美しい文体。漢字変換ミスももちろんない。あったとしたらば、必ず訂正文を後で追記する。
年齢に縛られたくはないが、やはり御年86の男性がこれだけの文章を正確に打ち込めるのには、脱帽する。
日常を綴るだけのそのメッセージに、何度も推敲を重ねたことがよくわかるし、シャツによった皺を伸ばすような、細やかな気配りと丁寧さを一斉に受け取ることができる。
溜息が出るほどに美しい。
そして次に、言い回しが優しい。
平面なゴシック体のその文字が、彼が1文字ずつ直筆で認めたかのようにさえ見える。
いつも彼が書斎でつらつらと書き流している、毛筆の連綿体を思い出す。
ゆるやかなその言葉たちはあたたかく、ほっとする。
わたしと血の繋がった祖父が書いたものだからだろうか?だとしても、この安心感には毎回涙が出そうになるほどだ。
そう、大袈裟ではなく、本当に泣きそうになる。喉の奥が痒くなって、視界がじんわり滲む。
昨日のメッセージには、叔父(わたしの父の妹の旦那さん)が働く水道会社のショールームでもらったというクッキーの写真がついていた。
食べ切れずに持ち帰ったところ、会社のヘルメットを被った少年や蛇口など、ユニークな形をしていたことに気づいたらしい。
『もう感激して食べずに大事に仕舞って置くことにしました。』
これが今回のキラーワードだった。
仕事の昼休憩中に読んでしまったばかりに、涙を我慢せざるを得なかったが、半分くらい泣いていた。
祖父の言葉は、引き出しの奥にしまった宝物の存在を思い出したときのような、喜びとときめきをくれる。
ああなんだ、大事なものは、こんなところにあったじゃないか、見えていなかっただけで、ちゃんとあったじゃないか、と。
また、感動はちゃんと言葉にし共有することで伝染する、ということも教えてくれる。
通勤路の傍らに咲く花を見て、都度「美しい」と言葉を充てる、そんなことをしてきた経験は、数えるだけもあるだろうか。
そこにあると気づくこと、それを美しいと思うこと、それを他者に共有すること。
心があたたまりましたと、言葉をもって誰かに伝えること。
日々の出来事は毎日ちゃんと新しいということ。
それら全てを、忘れないでいること。
「白魚のような手だね」
過去に、テーブルの上に置いただけのわたしの手を見て、彼はこう言った。
白魚という言葉をこんなにも高尚で繊細だと思うことはこれまでになかった。
それをこんなにも嬉しいと感じるということも、はじめての気づきだった。
あれから心なしか、お寿司屋さんでも白魚が目につくようにもなった。
そして白魚はおいしいということも知った。
おじいちゃん。わたしはあなたの孫としてうまれてこれた、そしてこの毎日のLINEを拝読できる、それだけでこの人生に大きな意味があったと思います。
次会いに行ったときには、大事にしまってあるクッキーを見せてもらおう。
もったいなくて食べられないなら、わたしが代わりに食べてあげるからね。