映画『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』狂乱を生んだ男の結末②
『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』の感想の続きです。
①をお読みになってない場合は是非こちらを先にお読みください。
※以下、ネタバレを多く含みますのでご注意ください。
『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』2024年10月11日公開
法廷で問われたものとは
今作の見せ場の一つは間違いなく法廷劇だろう。
論点はただ一つ、アーサーの中にジョーカーという別人格が存在しているか否か。つまりアーサーの責任能力の有無だ。
若き検事ハービー・デントは様々な証拠や証人を突きつけ、アーサーに別人格など存在しないと追求する。対して弁護人は、あくまでアーサーの中に潜むジョーカーという別人格が及んだ犯行――つまりアーサーに責任追求はできないと弁護する。
ここで注目すべきは弁護人だ。彼女は実際にジョーカーという別人格がいるかなど全く気にとめていない。アーサーに寄り添うことなく終始「別人格がいるように振る舞え」と執拗に迫るのだ。無罪を勝ち取ることしか考えていないのだろう。
誰も自分自身を見てくれず、まともに取り合ってもくれない。それなのに勝手にジョーカーという別人格を定義され、その存在有無を追求される。誰も彼もがジョーカー、ジョーカー、ジョーカー……
薬をやめ不安定なアーサーがその状況に耐えられるわけがない。リーに焚き付けられこれまでにない高揚と自信を得ていた彼は、とうとう爆発し、自らジョーカーという偶像を纏ってしまった。
それでもジョーカーになれなかった男
民衆が望むようなジョーカーがアーサーの中に存在しなかったとしても、それでもジョーカーを演じ法廷を愚弄して聴衆を湧かせているうちは、リーとの未来を夢想し、押し殺した苦悩や怒り、悲しみを紛らわせることができたに違いない。
だが、無理に纏った仮面などすぐに軋んでしまうものだ。
前作でアーサーと唯一まともに向き合っていたゲイリーが証言台に立った時、そして彼が事件後どんな辛い思いをしているかをジョーカーではなくアーサーに向けて語り出した時、アーサーは自分が自分でしかないという事実を目の当たりにした。
またアーサーはこの日、大きな過ちを犯していた。
弁論の最中、これまで何かとアーサーと懇意にしていた筈の看守達を非難してしまったのだ。それを聞いた看守達が心穏やかでいられる筈がなく、あぁなったのは当然の帰結だろう。
不運だったのは、ぐったりしたアーサーが独房に運ばれるのを見た若い囚人が「聖者の行進」で抗議したことだ。看守達がそれを許すはずもなく、怒りの矛先は若い囚人にも向けられ取り返しのつかないことになってしまう。
アーサーはただ独房の中で無力感と絶望感を味わうしかなかった。ここでもやはり自分は何者でもない、ただ一人のアーサーだということを痛感したことだろう。
心を打ち砕かれたアーサーは自分がジョーカーたり得ないことを受け入れ、最終弁論の場で思いの丈を涙ながらに訴えた。
その告白を最後まで聞くことなくリーは法廷を後にした――
散りばめられたメタファー
作品冒頭では、まるで昔のディズニーのようなレトロな映像でアーサーと彼の影たるジョーカーとの争いが描かれていた。
レッドカーペットを歩くアーサー。もっとスポットライトを浴びていたいと踏みとどまるジョーカー。控え室でアーサーを縛り上げ、彼に成り代わってステージに上がり歓声を浴びてご機嫌なジョーカー。
最後はジョーカーが自分の罪を全てアーサーに押しつけて何食わぬ顔でアーサーの足下に消えていくのだが、冒頭にして終盤までのストーリーを暗示するかのような内容だ。
本作では随所にこういったメタファーが散りばめられていたように思う。特にミュージカルナンバーにはその先を暗示する要素やアーサーの精神状態がふんだんに盛り込まれていたので、次回鑑賞する際はそういった細かな部分を注視するのも面白そうだ。
また、前作よりも更に喫煙シーンが多かったように思うが、これも何かを意図してのことだろうか。次回気をつけるポイントとして書き記しておく。
アーサーがゴッサム・シティに遺したもの
作中の荒廃しつつあるゴッサム・シティは言わば過渡期だ。
それまで燻っていた民衆の不満や怒りがジョーカームーブメントにより目に見える形となって街を覆った。この先、この街には民衆の怒りを代弁する存在が次々に現れ、我々のよく知るあのゴッサムへと至るのではないか。
個人に目を向けると、アーサーを刺した彼は作中何度もアーサーを羨望、そして値踏みするような眼差しで見つめていたのが印象的だ。
信奉者は往々にして崇拝の対象に勝手な理想像を押しつけ、それが違うとわかった途端、勝手に失望し怒りをぶつけるものだ。彼がアーサーに失望し裏切られたと感じた時、恐らくこう考えたのではないか。
「あんなやつがジョーカーである筈がない。ジョーカーのことを最も理解しているのは自分なのだから」と。
崩れゆくアーサーの背後で笑いながら口を切り裂く姿は、彼がアーサーに代わりジョーカーに成ることを示唆している。ある意味、本物のジョーカーが誕生した瞬間かもしれない。
彼が世に知られた時、リーは今度こそ「本物」のジョーカーを完成させるために再び暗躍するに違いない。
続いてはハービー・デント。バットマン作品ではお馴染みのトゥー・フェイスだが、今作では正義感と野心に溢れた掛け出し検事での登場だ。法廷が爆破された際に顔面に怪我をしていたように見えたが、それは後に彼が二面性を得ることの暗喩なのだろうか。
アーサーとジョーカーの二面性を追求する彼が後年二面性に支配されるというのは非常に上手くできた筋書きではないか。
そして最後は我らがブルース・ウェイン。今作には登場しないが、アーサーの母がウェイン家に仕えるメイドであった過去から、アーサーとウェイン家には不幸な因縁があった。
前作、アーサーが起こしてしまったジョーカームーブメントの裏側で、劇場を後にしたウェイン親子はピエロの面を被った暴徒に襲われ、ブルースは両親を亡くしていた。つまり意図せぬこととは言え、間接的にアーサーはバットマンの誕生にも関与しているというわけだ。
ジョーカーにはなれなかったアーサーだが、後の混沌と狂乱に満ちたゴッサム・シティへと向かう転機を作った重要な男であることには変わりない。
賛否両論なのは致し方なし
公開前より賛否両論と聞いていたため相応の覚悟を持って鑑賞したが、思いのほか私にとっては良作だった。
最初からジョーカーではなくアーサーに軸を置いて臨んだからかもしれないし、レディー・ガガも好きだしミュージカルも好きなのでミュージカルシーンが長かろうと楽しめた、という利点もあったかもしれない。
一緒に観た家族は突然歌い出すミュージカル形式が苦手なこともあり、歌い出すたびに没入感が薄れ最後までストーリーに入り込めなかったそうだ。
確かに前作のようなイメージを求めて足を運んだ場合、スクリーンで歌って踊るアーサーを見るのは困惑以外の何ものでもないだろう。
とはいえ、恐らく最も否定的な印象を持ったのは、今作にジョーカーの活躍を期待した層だろう。法廷でようやく妄想ではなく現実でジョーカーが登場した時には胸を躍らせただろうが、その後の展開は既出のとおりだ。
そんな客層にとっては、自分が二作品にも渡って観たものがジョーカーになった男の話ではなくジョーカーになれなかった男の話であったなど、肩透かしでしかないだろう。
そういう意味では前回の感想でも触れたとおり、我々もゴッサム・シティの民衆と同じ、ジョーカーという偶像に熱を上げる一員だ、ということだ。
我々がよく知るジョーカーやゴッサム・シティが生まれる土壌を創った男の物語として秀逸な作品には間違いないので、もしまた鑑賞していない方がいらっしゃるなら、是非とも劇場に足を運び、その目でアーサーの結末を確かめて欲しい。