映画『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』狂乱を生んだ男の結末①
公開前から本国アメリカでは賛否両論であることが何かと話題になっていた『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』ですが、確かに観客側が何に期待して観たかによって、その印象は大きく変わる映画だと感じました。
※以下、ネタバレを多く含みますのでご注意ください。
『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』2024年10月11日公開
続編により前作の事象は確定
前作『ジョーカー』は、いかにしてゴッサム・シティに悪のカリスマであるジョーカーという偶像が生まれたかを描いた作品だ。
注意したいのは、主役であるアーサー・フレックがいかにしてジョーカーになったかではない。アーサーは確かにジョーカー・ムーブメントを生み出した存在ではあったが、言わば民衆によって、自分たちの代わりに社会を断罪するジョーカーという偶像に祀りあげられ旗手となるよう強いられた悲しき存在だ。
そんな前作はアーサーの現実と妄想が巧みに混じり合って進行していくため、最後に収監され面談を受けているシーンを観た時には「これはどこまでが現実だったのだ?」と観客に様々な解釈を生んだ。
かくいう私も、全てとはいかないまでも、州立病院で母ペニーの過去のカルテを読んで崩れ落ちた後の一連のストーリーが妄想である可能性を捨てきれずにいた。
だが今回の続編により、細かな経緯にはアーサーの妄想(誇張)が含まれるにせよ、トークショーでマレーを射殺したことは事実であると確定した。
個人的には明確な回答を得てスッキリした反面、様々な解釈を生んだギミックに公式自ら水を差してしまったのが少し残念でもある。
偶像に熱狂する民衆たち
前作から2年が過ぎてもゴッサム・シティでは相変わらずジョーカー・ムーブメントが続いていた。
人気番組の司会者が生放送で殺害されたこともありメディアでの過熱報道は続き、民衆は一層のことジョーカーを神格化している。果ては再現ドラマなんてものまで制作されている始末だ。
もはや信者の域に達した民衆は自分たちの理想のジョーカー像をアーサーに押しつけるばかり。この時点では、アーサーを一人の人間として見ている者も理解しようとする者も誰も出てこない。
誰も彼もがアーサーを通してジョーカーという偶像に触れたいだけなのだ。
そして観客の多くもゴッサム・シティの民衆と同じだ。
過去の映画やコミックの影響で我々にも「ジョーカーとはこう」という漠然としたイメージがある。近年では特に『ダークナイト』におけるヒース・レジャーの怪演が印象的だ。
アーサーの物語だとわかってはいても、心のどこかで狂乱に満ちた展開が待ち受けていると期待して劇場に足を運んだ観客は多かったのではないか。
我々もジョーカーという偶像に熱を上げる一員なのだ。
Folie à deux 理解者とはなり得なかったリー
予告映像を見た時は、てっきりレディー・ガガ扮するハーレイ・リー・クインゼルがアーサーの唯一の理解者になると考えていた。真実の愛を得たアーサーは果たしてジョーカーという偶像から降りるのか、それとも自ら望んで偶像を貫くのか、と。
――結論から言えば、リーはアーサーの理解者ではなかった。一環してアーサーを通してジョーカーのことしか見ていないからだ。アーサーが素の自分を見せればやんわりとジョーカーであることを強いてくる。
分かりやすいのは懲罰房のシーンだろう。看守を抱き込んでまで忍びこんだはいいが、いざアーサーから遠慮がちに迫られると「本当の貴方を見せて」とジョーカーメイクを施した。アーサーではなく、あくまでジョーカーでなければならないのだ。
さて、今作のサブタイトル<フォリ・ア・ドゥ(Folie à deux)>とは二人狂いとも呼ばれる感応精神病のことだという。
Wikipediaには他にも、上位の者が自分の妄想を他人に現実として押しつける症例についても記載されていた。まるでリーとアーサーの関係性だ。
アーサーは病院に収容され外界と隔離されている。世間も収容所の皆からも大きな関心を寄せられているが、それらは全て本当の自分自身に向けられたものではない。
そんなアーサーを思惑通りに動かすのは、リーにとっては容易かったことだろう。後から判明するが、彼女の父は医者で彼女自身も精神医学を学んでいた。彼の興味を引くような嘘を悪びれもせず次々に繰り出していたのは、どう振る舞えばアーサーを自分に依存させ、彼に自分の意思でジョーカーを演じさせられるかをわかっているからだ。
面会時にアーサーから追求された時でさえ、ガラス越しにジョーカースマイルを描いて注意を逸らし、妊娠したと言ってのける。煙草を吸いながら言われても信憑性に欠けるが、アーサーはそれには気づかない。
彼女の思惑が次第と露わになってくるのがこの映画の見所のひとつだろう。
賛否の分かれたミュージカルシーン
今作、アーサーの精神状態はミュージカルで表現されていた。
前作ではアーサーの現実と妄想を同列に見せられ、終盤に虚構であることが明らかになったが、同じ手法で表現していたら観客はすでにネタバラシをされているので前作ほどのインパクトもなく退屈しただろう。
果たしてミュージカル形式が最善だったのかは、今作の評価が割れた一因でもあるので難しいところかもしれない。
しかし、今作のアーサーは虚構の愛に舞い上がり翻弄される哀れな男だ。
リーへの感情やジョーカーと本当の自分との乖離による苦悩、そして世間から求められる偶像になれず絶望し、現実を突きつけられ、最後にはそれを全て受け入れあのフィナーレに向かっていくのだ。
そんな彼の心の内をミュージカルで表現するのは、個人的にはとても理にかなったものだと感じた。
確かに映画を占める割合を考えると少々時間を割き過ぎたきらいはあるが、後半になるにつれ、明るいショーナンバーの中にさえアーサーの混沌とした精神が反映され、不穏な雰囲気が見え隠れするなど、彼がいかに混乱を来たしていたがが十分に伝わるものだった。
終盤アーサーは「もう歌わないで」とリーに懇願したが、作中、リーの歌に転がされ踊らされ続けていたことが、あのミュージカルシーンの多さからも明らかであるのだから、実によくできている。
それにしても、世界的なアーティストであるレディー・ガガは勿論のこと、ホアキン・フェニックスも素晴らしい歌とダンスで魅せてくれた。
何かのインタビューの中で、撮影前は過酷な食事制限によるダイエットと平行してダンスの練習に励んでいたと語っていた。その血のにじむような努力の成果はスクリーンで我々が観たとおりだ。
後半の②へ続きます。
あわせてお読みいただけると幸いです。