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愛は重たくて果てしない


週末に植物の手入れを一緒にしながら「もし私が死んだらどうする」とポップな感じで笑いながらつぶやいたら彼は「俺も死ぬかな」と言った。「はあ?」と笑ったら彼は「嘘だと思ってるでしょ」と低い声で言うので少し心臓がぎゅっとなった。

彼はたまにそういうところがある。いつもならこう返すんだろうなってところで、全然違うようなこと、問うたこっちが心臓を鷲掴みされるような言葉を言う。それはいつも、それが真実ではなくとも真実だと思わせるほど重たく響く。ほんとうに死んじゃいそうだなこの人と思うほどに。

「ならあれだね、私は長く生きなきゃな」と言うと「そうでしょ、そうだよ」といつもの調子で笑いながら土で汚れた手を優しくはたいていた。彼と私が触れてすっきしりした植物は生ぬるい風を受けてゆらゆらと笑っていた。

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「子どもは難しいかもしれないね」と言われたとき、「かも」という曖昧な言い方に優しさと情けを感じた。たぶん産めることには産めるのだろうけどあぶないよ、と伝えたかったのだろう。「はっきり言えばいいのに、私はもう27だよ」と思いながら、いつもならコーヒーを頼む帰り道でカフェラテを頼んだ。とても暑い日だった。

きっと、普通に子どもは欲しいと感じている人やどうしても産みたいと思う人ならその場で悲しくて泣いたり受け入れられなくて呆然としたりしたのだろうけど、私は特別子どもが欲しいわけではないから、泣いたりはしなかった。あくまで今の私の気持ちだけれど。

ただ、悔しかった。結局こうなんだな。と思って落胆した。そしてそれでも泣けない自分にもがっかりした。

仲良い男女グループで会ったとき、結婚や出産の話しになり、ひとりの男友達が「俺は結婚もしたいし子どもも欲しいな、だからもし彼女が子どもはいらない人だったら別れる」と言っていた。それまでるんるんで食べていた自分の箸が止まった。思い浮かんだのは彼の顔で、そこでは泣きそうになった。

もはや私自身のことでもひとりの問題ではないのにひとりで自己解決してしまいそうになっていた自分にひどく嫌気がさした。

彼に話しをすると特別驚いた様子はなく、「ずっと言ってるじゃん、(私)が生きていてくれればいいって」「それ以上何もない、本心だよ、周りに色々言われたとしても俺が話してることを聞いてればいいよ」と言った。

そう言ってくれた彼に「私といることで(彼)がいろんなこと諦めることになっていたらと思うとほんとうに嫌なんだよ」「そうだとしても絶対私に見せないでしょ、私に合わせてくれてるんじゃないかとかやっぱりどうしても考えるし」と私は問い詰めるように言葉を吐いてしまった。

彼は私の余裕のなさを察しながらも、冷静に「(私)が信じたいことを信じなよ」と、少し冷たく言った。その彼の淡々とした言い方のおかげで私は冷静になった。

「ごめん」と言ったあとで泣きそうになったけれどここで泣くのは違うなと自分を律した。そして建前ではなく、本音を言った。

「私といたら負担をかけちゃうんだろうなとか自覚してるし考えてくるくせに全然別れてほしいとか冷たく突き放したりできない、これからも一緒にいたい、どんな形でもいいから(彼)に隣にいてほしいし隣にいたい、私が望んでるのだけはそれだけです」と。目を見ると、彼は「うん」とだけ短く、けれどとても優しい声で頷いて手を差し出してくれた。

「握手?」と聞いたら「契り?(笑)」と返ってきたので「なにそれ果てしなく重たいね」と言いながら手を握り返すと、「愛は重たくて果てしないもんでしょうが〜〜〜〜!」とふざけた声で手をブンブンとされそのまま強く抱きしめられた。

自分史上きっと最上級であろうわがままを言ったのだ、私は彼に。

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この先、自分が子どもを望むような未来が来たのなら、ほんとうに乗り越えなきゃならないのはそのときなのだろうけど、そのときのことはそのとき考えようと今は思える。今後も治療や検査を続けて今より良くなる可能性だってあるのだし、すべてを今諦めなければならないわけではない。ただ少し、期待はしすぎないように。そのバランスが難しいけれど。

結婚や出産がリアルな年齢になって思うのは、自分の人生の主導権は自分にあることに変わりはなくとも、もう自分だけのものではなくなるということで、それは窮屈な感じ方ではなく安心感だったり、心強さだったりだ。

彼がほんとうは何を思ってどう考えているのか、私に彼の全部はわからないけれど、彼が信じたいことを信じなよと言ってくれたのがすべてだと思って、私は私が信じたいと思ったことを信じていようと思う。

年々体調を崩す頻度が増え、完治はしないと知っていてもどこかで「何かの拍子に治るかもしれないし」と期待している自分もいて、「絶対に大丈夫」と「もうだめだ」の繰り返しの中で生きている。

昔よりだいぶ心は元気になって感情がはっきりするようになって、自分の自我も輪郭を帯びて、それでも何度も怖くて眠れない夜はやってくるし、大切な人に対する大切が大きくなるたび、一緒にいられる時間の長さを望んでしまう。

めぐる季節のなかで、なんども挫けてそのたびに何度も立ち上がって進む必要があって、立ち止まることが怖いのなら、歩き続けるしかないのだと。怖いって気持ちや不安はこれからもなくなることはなく、共存していくしかないのだろう。

だから思う。何かを選択するとき、少しでもワクワクする方へ、少しでも胸が鳴る方へ。少しでも足取りが軽くなる方へ。そして人生という長い賭けに一緒に乗ってくれるのはこの先もあなたであってほしいと。

*****

私が祖母の住んでいた街に行くと彼に話していた日、彼は私に内緒で有給休暇をとっていた。

「俺も一緒に行く。あの街好きだから一緒に行きたい」と言った彼の表情は、私をひとりで行かせたくないとかそんなことを思って休みをとったのではなく、純粋にその街が好きだから一緒にという気持ちからなのだという説得力があった。

「いい街でしょ」と言うと、「引っ越してもいいんだよ」と突拍子もないことを言うのでまた笑ってしまった。そうか、それもいいね、私たちには無限に選択肢があって自由に選択できる権利があるものね。


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背筋を伸ばして深く呼吸をする。

アイスコーヒーに浮かぶ氷の弾ける音で朝に呼ばれているような気がして、自然と口角が上がる。

不器用でも最大限に彼を、そして私自身を大事に愛したい。


私は今を生きている。



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