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何年分の思い出よりも、心を動かす一瞬を

恋愛においても、仕事においても、それ以外においても、一瞬の尊さを実感する。

特に恋愛においては、残酷なほどに当てはまってしまうことが多い。

例えば好きな人と長年付き合ったとして、自分も、相手も、心を強く動かす出会いがあればその一瞬の前では、たくさんの思い出も塵になって消えていく。

思い出の多さや、築いてきた信頼関係は、確かにそこにあって、それが偽物なんてことは決してなくて、大事な人であることに変わりはなく、傷つけたくはないと思う優しさそれが同情だとしても愛の残り香だってちゃんと心にある。

けれど、心を動かされる一瞬というものの前には、敵わないのかもしれない。

心を動かされるというのは、頭ではなく、全身で自分の身体が叫び出したいような気持ちを孕む。

例えば

そういう人に出会ったときに

「出会えた」という気持ちよりも
「見つけた」と直感的に思ってしまう

相手がそういう一瞬に出会って心を動かされ、置き去りにされた立場
自分がそういう相手に出会い心を動かされた立場
誰かの心を一瞬で動かしてしまった立場

すべての立場に立たされて、ようやく一瞬に潜む永遠の怖さと素晴らしさを知った。

たとえば恋愛であれば、その一瞬が気の迷いや血迷っただけの麻疹のようなものだとしても、衝動が、激動が、その人自身を突き動かしたことに嘘はないのだろう。

置き去りにされる立場に立たされたときはやるせなさや虚しさや悲しさや寂しさが込み上げて、もう涙も出ないほどに泣いてしまうだろうし、

「これまでの時間はなんだったの」と思ってしまう。


けれど、自分が心を動かされる一瞬に出会ったときに、その感覚を知ったときにそれは突如てのひらを返したように理解に変わってしまう。

残酷なほどに、誰がどうあがいても、どう覆そうとしても、

惹かれ合う人とは、惹かれ合ってしまうし、好奇心を駆り立てるものからは目を離したとて振り返ってしまうし、美しいものはどんな見方をしたって美しくて。

そしてあまりにも強い引力というのは、どうしてか、両者に備わっていて、片方だけということがあまりにも少ない。

悲しいほどに、通じ合ってしまう、通い合ってしまう。そういうものが、この世にはどうしてか、存在してしまう。

その人の誰も知らない顔や一面をを見たときか、何気ない行動や立ち姿か、会話の中で垣間見えるその人の本質か、何が一瞬になるかは分からない。

出会うことでしか見えないもの知ることできないものが、存在してしまう。

恋に落ちるのに時間がいらないように、信頼関係を築くうえで、時間が必要にならないこともある。

直感的なものは一時的なものだと感じる人も、直感を信じる人も、どちらも等しく正しいのかもしれないけれど、一時的なもの、瞬間的なものは、時に永遠になりうる。

本人の自覚がないところで、他人は心を動かされたり、どうでもよかったはずの記憶が覚えていたいことより鮮明に残っていたりする。

一瞬というものに対し、こんな風に書いていると、残酷なことのように思えてしまうけれど、言いたいことはそうではなくて、

心を動かされるというのがいかに素敵で素晴らしいことなのかを、ちょろっと言語化したかっただけ。

自分が心を動かされることで、傷ついてしまう人はいるかもしれないけれど、そういう人や場面、状況に出会えること自体は恨んだり憎んだりしないでいたいし、いてほしいと好きな人にも思う。

量より質って、案外いろいろなことに当てはまるなと思う。

個人的には勉強に対しても、性行為に対しても、仕事内容にしても、映画鑑賞や読書にしても、当てはまる。

要領がいいとは似て非なるものだからそこを履き違えてしまうと人生つまらなくなってしまうけれど。

要領なんか良くない方が人生踏んだり蹴ったりで以外とおもしろいものなのよ。



恋人と付き合う前、何年も前のまだ緊張感のある友人だった頃、コンビニのアイスコーナーで立ち尽くしアイスを見て迷う私の、隣ではなく、向かい側に立って私の近くにあるアイスにわざわざ手を伸ばして取り

「これ、すきなんです」と目を見て照れ笑いしたこと、

これが、私にとって永遠になる一瞬の記憶(たくさんあるうちのひとつ)。

そのままの、手を伸ばせば触れるくらいの微妙な距離感のなかで、向かい合ったまま「私はこれもすきです」「わかります」とアイスに指を差し合って話していたあの数分間が私はとても心地良かった。

彼は手にとったアイスをレジで購入するとそのまま外へ出て、私の隣へくることも、声をかけることもなかった。それがとても嬉しかった。

彼がアイスを満足そうに食べている顔を見て自然と笑みが溢れた。

交際してから、彼に「隣ではなくて、向かい側で話してくれたことが嬉しかった」と言ったら「アイスのこと、じっと見てたから」と言うのもとても彼らしかった。

彼にとっては薄らと思い出せるような記憶だとしても、私はそのアイスが何だったかまで覚えている。

きっとあの時が彼が触れる距離で隣にきて「このアイス好きなんですよね」と言っていたら、私は人の体温が突然触れたことの気持ち悪さと、アイスひとつひとつの魅力を頭の中で数えて比べて遊んでいた愉快な時間を脅かされて、寝室に土足で踏み込まれたような気分になっていた。

「なぜか忘れられない一瞬ってあるよね」

と彼に言うと

「ああ、あるね。付き合う前にみんなで飲んで帰ってる途中の道で、みんな口笛吹けてるのに(私の名前)は全然吹けてなくて、俺も吹けないって言ったら、おんなじっ!て(私の名前)が嬉しそうに俺の方振り返ったこととか、なんかすごく覚えてる」

「あーー俺口笛吹けなくてよかったーーー 

とか思ったな」

と言われて、照れ臭くなったのは、私にとっては、取り止めのない思い出だったからかもしれない。

自分のなかでは、言われてはじめて「そういやそんなことあったかも」と思うようなできごとが、誰かにとっては、色濃く残っていたりする。

一瞬がきっかけで、きっかけは一瞬で、それが永遠になることってある。

言ってしまえば何年間も積み上げた恋人との思い出なんて、それだけを見てしまえば簡単に塵になってしまうものだけれど、時が経っても「あの人このお菓子よく買ってたな」とコンビニでふと思い出したりする、その一瞬は消えることはない。

けれど逆に、一瞬の積み重ねが思い出になるというのは、何だか私は違う気がしていて、一瞬は決して何かとひとつになることはなく、個々として輝いているものなのだと思っている。


前後の記憶はない。

けれど、その一瞬、その笑顔、その振る舞い、その言葉、その声、その話し方、その景色、その雲の流れ、その風の音や季節の匂い、でこぼこの道や履いていた靴、つけていた香水、イヤホンから流れていた音楽、隣にいる人が食べていたもの、

そういう、取るに足らないものだけ、私の中に彩度も明瞭度も濃いまま記憶されていく。

そこまでどんな公共交通機関を使って行ったか、どう計画していったかなんて忘れてしまったけれど、

辿り着いた場所に私たちは立っていて、確か、そう、悴んだ手を繋いで泣きながら笑っていた。






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