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孤独を証明するための人生じゃない


口寂しい私に飴玉を買ってくれる人が多いなかで、からいガムを渡して「飴を渡したらすぐ噛み砕きそうな顔してるよ」と笑った人がいた。

実際、その通りだった。昔の私は飴玉を口に入れるとすぐにガリッと噛み砕いた。チョコレートの甘さで口の中がいっぱいになるのは求めていた慰めだったけれど、飴玉の甘さで長い時間もったりするのはなんとなく心がザワザワとして不快だった。

甘ったるい飴玉を渡されると、その人から私はそういう風に見えているんだなと思ってしまったし、からいガムを渡されたらなぜかほっとしたしそれだけでその人に好感を持った。

きっと私に飴玉をくれた人は親切心からそうしているのだろうし、甘いものは無条件に慰めになるというのは私もそう思っているし、飴玉の味がいちごみるくだろうが珈琲だろうがはちみつだろうが、ほんとはどうだってよかった。

ただ私がそれを素直に受け入れるだけの余裕がなかっただけ。

そんな余計なことばかりに思考を割いて目の前の人のことをきちんと見ていなかったような気もするし、見たところで悲しくなっただけだろうなとも思う。

人との関わり方が雑で、自分から自分を見せようという努力もしないでわかってもらいたいという甘えがずっとあって、それをわかってもらえないとため息を吐くような傲慢な日々。私はそういう日々を生きて少しずつ確実に自分を嫌いになった。

昔からひとりが楽だったのは、努力をしなくて済むからだった。

今私は相手が望んでいることをしてあげられるけれど、別にそれは私がしたいことじゃないしな、そんな風に愛も温もりも優しさもない人との関わり方をする自分がほんとうに嫌だった。

そう思いながらそれでも結局相手の望んでいることを忠実に再現する私も滑稽で愚かだった。

セックスにおいても、自分の自我なんてものはどうだってよかった。目の前の人間をいまどう悦ばせるかそれだけがすべてだった。当時交際していた恋人に触れられても気持ちいいだとか嬉しいだとかそんなこと思わなかったし、恋人関係になった人がそうしたそうだからそうしていた。そういう感じだった。

セックスをしている最中、相手が満足しているならそれでよかったし、むしろ私はどうすれば満足するのか自分でもよくわからなかった。恋人関係にある人間が私の体を見て欲情してくれるなら、それは多分恥じらいつつ喜ぶべきことなんだろうから。そう思えば気持ち悪いなと思うことがあっても吐かずに拒否せずに耐えられた。

今の私では考えられないことのなのだけど当時セックスは私にとって愛情表現の現れではなかったし流れに逆らわずに生きたただの結果でしかなかった。 

どうでもいいくせにどうでもいいを言えない。そのくせどうでもよくないことに必死になれない。「なんてダサい生き物。」、私の私に対する評価はずっとこうだった。

これでいいんでしょ
こうすればいいんでしょ

という投げやりな関わり方や接し方に慣れていくうちに、ほんとうはどうしたいのか、何を望んで何を待っていて何から逃げたくてどんな生き方が嫌でどんな生き方をしたいのかもよくわからなくなっていた。

誰のための人生か
誰のための選択か
誰のための笑顔か
誰のための涙か
誰のための決別か

その全部に私のためだと言える私でいたかったのに人と関われば関わるほど私は自分を見失っていく。だからひとりがよかった。ひとりは自由で楽で一番私らしくいられた。

けれどずっとひとりは寂しい、虚しさどうしたってある。だから人とのつながりを求めた。恋愛であれ友情であれ、人とのつながりが切れるときに胸は痛んだし涙を流した。

愛を差し出せば愛を与えられるという安置で甘い考えばかりで、愛に傷はつきものだと知る由もなく、気づいた頃にはズタズタでバラバラになり、その度に呪うのは相手でも人生でも運命でもなく自分だった。自分に責任を帰せればその先はひとりでどうにかできる、人の力を借りずとも。そう思った。

でもそんなことは無理だった。

人の関わりで生じた傷を癒すにはそのための人との関わりが必要で、差し出した愛が行き場を失う前に抱きしめてくれる人が必要だった。

誰といようが誰を愛し愛されようが人は一生孤独なんだということを受け入れて生きていける。

けれど、孤独を証明するための人生じゃない、私は孤独を証明するために生きているわけではない。

だから人と出会い関わることで生まれる感情や新しく見えた道、劣等感に苛まれるほどの眩い光、血が滲むような傷跡、そういうことは全部ちゃんと私の心の真ん中に置いておきたいと思う。

人との関わりを苦しいと感じたり鬱陶しく思ったりそんなことは生き方を変えた今でも当たり前のようにあるし、愛する人の前で泣かずにひとりで泣き続ける夜だってたくさんある。

人とつながるから孤独はより輪郭をはっきりとさせ、ダイレクトに心に響く。けれど孤独とやらはそもそもそもともとの状態であり、人と関わり合うことでそれを忘れてしまっていただけなのかもしれない。

だから、孤独が0の状態なのだとしたら、私はその上に立ちどんな状態にもなれる。

ずいぶん昔に諦めたつもりで諦めきれていなかった私の人生、いつかきっといつか、そうやって心のどこかで期待し続けた過去の見返り、私の奥にある人とどう関わりたいかの本音。

孤独になって、0の状態に戻されてはじめて気づくことに私が望む私の答えはある。私はバカだからときに孤独という0の状態に強制的に戻されなければ、大事なことが自分のなかから零れ落ちてしまう。

けれど何も、結局こうなんだと証明するために生きているわけじゃない。私はただ0の地点から、孤独というもともとの状態から見える景色に胸を躍らせたい。そして少しでも胸が高く鳴る方へ進む。孤独は私にとってもともとの状態でありさらには一歩前に踏み出すための踏み台だ。

ため息ばかりの人生だった頃、私は孤独というもともとの状態にすらなれていなかった。生まれた瞬間から孤独だと人はひとりなんだだと、全部を分かり合うことはできないのだということを受け入れてからの人生は孤独が教えてくれることはたくさんあって、敵ではないのだと知った。


私は孤独を好きなだけ利用するし私が生きるための手伝いをしてもらう。私の魂の半分以上を持っていったんだ、たまには私に手を貸したっていいだろ。

親友が「一緒に大人になろう」と言ってくれたときの芯の通った声と恋人が私を見る瞳はおなじ色をしていて私は自ら孤独を選び、そしてあなたたちの隣を選んだ。孤独であるが故に私は私たちは互いの美しさを知り、手を取り合えた。

孤独を証明するための人生ではなく、孤独と生きた人生で証明できたものの話しをいつかしよう。


もう会えないあの人たちにもいつか。


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