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食べるための動物を育てる

最初は矛盾していると思った。

最終的に食べることになる動物を、手間暇かけてわざわざ育てるなんて、時間的にも労力的にも無駄なことではないのかと。

典型的なサラリーマンの父を持ち、転勤家庭で育った私は、動物を飼った経験といえば小学校の時に十姉妹の小鳥くらい。ノルマンディーに来てから、生まれて初めて犬猫が飼える環境で暮らすことになったわけだけれど、愛情を注いで一緒に暮らすペットならば、動物を飼うという意味は分かる。時間をかけて信頼関係を築き、目を合わせるだけで相手の気持ちが分かる(分かった気になる)、意思疎通ができるようになってこそ、動物と暮らす意義があるというもの。

だから、殺すため、食べるために動物を育てるだなんて、何だか馬鹿げている気もした。肉屋さんやスーパーに行けば、食べたい時に食べたい肉が手軽に買えるのだから、何も苦労してわざわざ育てる必要なんてない。しかも育てただけでは終わらないのだ。最後に屠殺という汚れ仕事までしなくてはいけないのだから。

とはいえ、いくらペットと違うからといって、家畜に愛情がないわけではない。愛情のレベルは異なるのかもしれないけれど、毎日のように世話をしている動物であることは同じである。特にニワトリに関しては、孵化器で卵を孵化させて生まれてきたヒヨコたちなのだから、いうなれば、みんな私の子みたいなものである。

うちのニワトリたちは雑種の雑種だから、色も柄もさまざまで、世話をしていると特徴的な外見を持つ子は大体見分けがつく。数年前に、首に羽のないトランシルバニアネイキドネック(cou nu)の雄鶏を掛け合わせたことがあり、いまだにハゲ首のヒヨコが生まれると、あの子たちの子孫だとうれしくなる。


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朝、エサをあげに行くと、ニワトリたちが一斉にニワトリ小屋から飛び出してくる様子は、私に懐いているようにも見える。中でも、いつも私に近寄って来るハゲ首の茶色い雌鶏はめちゃくちゃ人懐こい。夏、暑くなるともう1台給水機を外に用意するのだけれど、タンクに水を入れている私の周りを囲んで、みんなでクルックル喉を鳴らしながらうれしそうに水を飲む様子は、ニワトリといえども本当にかわいい。

「大きくなったね」、「たくさん食べろよ」とニワトリを相手に普通に話しかける私の態度は、我が犬猫たちに対するものと変わらない。家畜には名前をつけず、個別化しないという違いもあるけれど、私はたとえ名前をつけた家畜がいたとしても、最終的に屠殺できると思う。

以前、フランス人の知人から、子供の頃におばあちゃんの家でウサギを飼っていた時の話を聞いたことがある。そのウサギには名前がついていて、家族みんなで可愛がっていたのに、ある日料理となって出てきて悲しかったと言っていた。聞いた時はすごいなと思ったけれど、今ではとてもよく分かる。家畜は家畜であり、ペットではないのだ。

愛玩用として飼われるペットと、食用として飼われる家畜では、同じ動物といえども役割が違う。どちらの命が重いとかという、そういう問題ではまったくない。美しく咲いた真っ赤なバラを観賞用にするのと、真っ赤に熟れた美味しそうなトマトを食用にするのと同じ違いである。単純に、生き物それぞれが持って生まれた役割が異なるだけなのだ。

しかし、たとえ最終的な運命が異なるとしても、その動物が死を迎えるまで責任を持って飼うことは、家畜もペットも同じである。その死が、自然死であったとしても、屠殺であったとしてもである。ゆくゆくは自分たちが食べることになる動物を、誰が粗末に扱えるのだろうか。

フランスでは、屠殺場での動物虐待が度々ニュースになる。私は残虐な映像等を見たくないので、詳細までは知らないけれど、あれは肉の大量生産というシステムが引き起こす問題だと思う。もし彼らが自分が食べるためだけに動物を飼育して屠殺するという作業を行っているのならば、虐待なんてしないのではないか。来る日も来る日も屠殺することのみを仕事にしている人にとっては、運ばれて来る動物は、生き物ではなくただの肉もしくはモノにしか見えなくなってもおかしくはない。

本当かどうかは分からないけれど、家畜にストレスがあるとその肉の味も落ちると聞く。たとえそうでなかったとしても、一緒に暮らす上で動物たちが生き生きとしている様子を見ることは、飼い主にとっても幸せを感じることである。これもペットでも家畜でも同じことだ。

さらに自分たちが食べることになるのだから、家畜たちの飼料にも気を遣うのは当たり前。我が家ではニワトリに与えるのは、麦と我が家から出る屑野菜だけ。後はニワトリたち自身で地面を突いて採れる、虫や草を食べて暮らしている。

家人のファンファンは、卵の黄身の色をより黄色くするためにトウモロコシをあげたいらしい。でも飼料用のトウモロコシは遺伝子組み換えされているとも聞くから、私としては却下。また知り合いの養鶏場から、配合された飼料を買ってきたこともあるけれど、内容物が信用できずにまたもや却下。家畜に与えるエサの内容もコントロールできるのは、自分で育てるからこそなのだから。

だから、我が家のニワトリたちは育ちは遅いし、ようやく屠殺できるくらいの大きさになるのは生後1年ごろ。世の中に出回っているブロイラーのニワトリは50日前後だというのだから、何を食べさせているのかと恐ろしくなる。


現在 の ブロイラー は、 体重 の 5 分の 1 が 脂肪 で ある( 注 14)。 これ は 何 十年 も 太り やすい 鶏 を 選択 飼育 し た 結果 で あり、 また、 餌 も 一因 と なっ て いる。 工場 式 養鶏 場 の 鶏 は、 脂肪 が タンパク質 より およそ 40 パーセント も 多い。

フィリップ リンベリー; イザベル オークショット. ファーマゲドン 安い肉の本当のコスト (Kindle の位置No.3224-3227). 日経BP社. Kindle 版.


正直に言って、1度でも自家製鶏肉を食べると、スーパーの安売り鶏肉は食べられなくなる。ぶよぶよの肥満体の肉には変な弾力があるだけで、味がまったくないのだから。上記の記事を読めば、その違いも納得である。我が家のニワトリは、走り回って暮らしているから筋肉質で肉が硬いけれど、その分たっぷりと滋味がある。

さらに自分で手間暇かけて育てた家畜だからこそ、無駄なく食べようと思うのも当然ではないか。上記の記事のように、通常は肉用と産卵用のニワトリの種類が異なるらしい。もちろん、我が家ではそんなことはしていられないから、孵化させたヒヨコはすべて育てる。というか、毎回、卵から出してあげても死んでしまうヒヨコがいて悔しい思いをしているのに、せっかく生まれてくれた命、1羽だって無駄になんてできない。



今までの孵化経験から、オスとメスの生まれる割合は半々くらいである。たぶん、若干オスの方が多いのかもしれない。そして、約1年後に卵を産んでくれる雌鶏を残して、雄鶏はお肉をいただくために屠殺する。しかし、この生まれてくる約半数のオスのヒヨコを、世界中で殺処分しているという。屠殺場での動物虐待同様、何かがとことんおかしいし、こんなに無駄なことってあるのだろうか。



今年我が家で屠殺した雄鶏は、計43羽となった。私とファンファンと、手伝ってくれるもう1人の3人掛かりで、雄鶏を捕まえる、絞める、毛をむしる、内臓を取り出すの一連の作業を行うこと、朝から晩まで丸1日。翌日、私は終わらなかった砂肝の下処理と、レバーのテリーヌ作りで約半日費やす。さらにすべての鶏肉を丸ごと冷凍する作業もあるし、約2日掛かりの仕事となった。

動物から命をもらい、お肉をいただくことは、決して楽な仕事ではないし、楽な仕事であってはいけないことを、改めて思い知らされる。屠殺してその日のうちにその鶏肉を食べることって、なかなか難しい。それは生き物を殺したという負い目でも、雄鶏への哀れみからでもない。屠殺して肉にするという作業自体でお腹がいっぱいになってしまうのだ。

それは料理を作るとそれだけでお腹いっぱいになってしまうのと似ている。他者から生をもらうことは、実は自分の生も少し失うことなのかもしれない。食べるという行為自体、本来はとてもエネルギーが必要なことなのだと、ふと思った。何といっても、私たちは生きるために食べるのだから。

3つある冷凍庫はもうパンパン、他には何も入りません。でも、我が家の鶏肉貯蓄はこれで万全である。

後日、調理第1号となった雄鶏1羽は、もも肉、手羽、胸肉に解体。鋳鉄鍋に入れて表面を焼いたら玉ねぎを加えて炒め、水を注いで煮込み、ジャガイモを加えてさらに煮る。味付けは塩、こしょうのみだけれど、柔らかく煮えた鶏肉はそれ自体の味が強いから、これだけで十分。若鶏ではないから、鶏皮が厚いのは仕方がない。しかし、久しぶりの自家製鶏肉の凝縮した旨味は、約1年間育てて屠殺するまでの、すべての作業に対しての美味しい報酬である。

残った鶏ガラは、いつも通り我が家の猫たちに先に与える。ただし、さすがに我が家の鶏肉となると、骨自体も丈夫すぎて猫たちも歯が立たなかったよう。さらに残った部分は我が家の犬たちが全部平らげてくれる。こうして、鶏肉丸ごと1羽は、みんなで一緒に食べ尽くし、後には何も残らない。


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雄鶏の雄叫びが聞こえなくなり、すっかり静かになったニワトリ小屋。残った雌鶏の数を数えてみると41羽だった。となると、約1年の間に死んでしまったニワトリが30羽以上もいるということになる。孵化したヒヨコだって育つ間に死んでしまうこともあるし、病気になる子もいるだろう。すべての死因は分からないけれど、たぶん多くは老衰。我が家の雌鶏たちは放し飼いだから、どのニワトリが卵を産んでいるのかが確認できず、卵を産まなくなったからといって屠殺することはしない。

たぶん、雌鶏の寿命は4~5年なのではないかと思う。私はニワトリが死んでいるのを見つける度に、牧草地の端まで持って行き、囲いの外に置いて来る。そうすれば、たぶんキツネだと思うけれど、野生動物が食べてくれ、翌日にはきれいさっぱりなくなっているからだ。

ニワトリの死骸が消えるたびに、誰だか分からない見知らぬ相手が、私からのメッセージを受け取ってくれた気がしてうれしくなる。せっかく育てたニワトリ、無駄死にさせるなんてもったいない。自然には、無駄にするものなんて何もないのだから。


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去年買ったマランの雄鶏を活用するべく、雄鶏を締める前に有精卵を集め、今年もまた孵化器で卵を孵化させた。もちろん、狙いは赤い卵を産むマランのニワトリを増やすこと。いなくなった雄鶏たちの置き土産となった有精卵からは、今、元気にヒヨコが生まれている。

季節は一巡し、世代は交替する。

来年に向けて、今年も食べるための動物の飼育がすでに始まっているのだ。




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