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子育てにおける「もったいない」との戦い

3歳児、おしゃべりがとても上手になってきたので大人から見ると意思疎通が取れているように見えてしまうのだが、思考回路はまだ論理的ではないというか、口と脳がイマイチ繋がっていないというか、記憶が完全に揮発性メモリというか…。
とにかく、一丁前のことを言う様になったのに、実は本当はまだまだ赤ちゃんなのだ。
自戒の念も込めてこれを記す。

最近、子育てにおける難しさ、というのを多方面で痛感する場面が増えてきた。
基本的には、基本的には指を目に入れられても痛くないし、寝てるときヒップアタックされても、飛び込んできた膝が股間を直撃しても可愛いのだが、自分の中でどうしても譲れない部分がある。

「もったいない」という概念だ。

自分が何のきっかけでそうなったか、いつからそうだったのかは記憶にないのだが、とにかく「もったいない」ことが嫌いである。
これに付随して、「ものを大切に扱わないこと」が嫌いなのである。

お子にもその精神を受け継いでほしいのだが、これをお子に教えるのが、まぁ大変。
「物は大切にしようね?」「本は踏んじゃダメだよ」「ミッフィちゃん投げたら痛い痛いって泣いちゃうよ?」こんなんじゃ全然聞き入れない。
そもそも、「受け継いでほしい」「教える」というのが間違っているのかもしれない。
本人が大切にしたいと思うなら大切にすればいいし、別に大切にすることが全てじゃない、壊れたら買えばいい、飽きたら捨てればいいという思考も100%悪いとは言えないのかもしれない。
自分が受け入れられないだけで。


まずは食べ物。
スプーンやフォークが上手く使えないから食べ物をこぼしてしまう、というのはフォローすればいいから耐えられるのだが、
・取ったのに食べない
・要らなかったものを落とす
・コップをひっくり返す
あたりがもうキィィィイイイとなってしまう。
これ、デンマークの保育園の環境がよくないとも言えるのだが、食べなかったものはゴミ箱に捨てればいい、という感覚になっているようだ。
実際、カフェやレストラン、オフィスの食堂でも日本人の感覚からしたらあり得ない量の食べ物を残して、捨てている。
お片付けできることは大変素晴らしいのだけど、食べなかったら捨てればいいは違うと思うんだよな…。
「米粒1つに7人の神様がいる」と言われて茶碗に米粒1つ残さず食べて育ってきた身としては、そういった感覚までグローバル化しないで欲しいと切に思う。
食べられる植物を育ててみたり、日本に帰ったら食育もさせてみたい。
せめてもの自分の中の踏ん切りとして、「食べられなかったものポイポイする時は、ごめんねってするだよ」くらいは言わさせてくれ。


他人の赤子動画では微笑ましく見てられるが、実際にやられるとちょっと嫌なのが、ティッシュ、トイレットペーパー、おしり拭きの無限取り出し。

気付いた時には、あーあーあーあー…

最近は収まってきたのだが、違うところに矛先が向き、「Wash your handしてくるねー」と言ったきり戻ってこないな…と思ったら、泡が出るタイプのハンドソープで遊んでいる始末。
いい匂いのするミドルクラスのハンドソープを買っているだけに、あまり無駄遣いはして欲しくないところ。
でも妻は、「おもちゃだと思えば別に安いじゃん」「昔、自分もすごくやりたかったのを覚えている」と言われてしまった。
この、「昔自分もやりたかった」けど親に止められてやれなかった、という経験は意外と記憶に残るもので、ホントしょーもないことでもその物や事を見るとふと思いだしたりする。


最後に、最近特に一番感じているのが、遊び方。
まずは"正しい使い方"、"正しい遊び方"というのを理解して欲しいと思う一方で、大人では絶対しない斬新な使い方で遊んで発想力を養ってほしい、と思うこともある。
このジレンマというか、せめぎ合いに大変苦しんでいる。

最近は塗り絵が好きで、水彩絵の具を使って遊んでいるのだが、ふと目を離した隙に筆を洗う用の水にえんぴつもクレヨンも浸かっていた。
なんなら、おもちゃの口紅まで浸かっていた。

迷路を塗り絵にしだすレベルのは面白いなーと思えるのだが、危ない使い方や物が壊れてしまう使い方は避けて欲しいと思うのが親心。
ただ、何が危ないのか、何をすると壊れてしまうのか、まだわからないよねーとも思う。

そして本記事のヘッダーにしたこの写真。

初めて洗濯したジーンズを置きっぱなしにした訳じゃないよ!

ちょーーーっと目を離したすきに、家中、壁から始まり、床を駆け抜け、Yチェアまで縦横無尽に青のクレヨンでお絵描きをしていた。
Yチェアのペーパーストリングのところは濡らして擦れないし、もう絶対色落ちしない!と泣いた。
後日友人から頂いた「いつかその落書きを張り替えるのが寂しくなる日が来るよ」を胸に抱いて今日も座っている。


そして、そんな日々を過ごしていた先日―
お子の親友であった南紀白浜のアドベンチャーワールドで出会ったパンダちゃんが行方不明になってしまった。
丸くて白黒はっきりしている模様が視認しやすかったのか、赤ちゃんの頃からパンダが好きで、1歳半になった時に本物のパンダを見に行った記念で買ったものだったのに。
ファーストコンタクトからパンダに大興奮!みたいな感じにはならず、おずおず好奇心と警戒心の入り混じった表情で、「あれがパンダ・・・?」というような顔をしていたのを覚えている。
その後、3歳半年になる先日まで約2年間、一緒に抱いて寝て、ご飯を食べる時も横に座らせたり、旅行に行く際に持っていくことも多々あった。そんなパンダちゃん。

最初こそ「無い!無い!」となったものの、親の方が血眼になって探してるし、終いには「まぁいいよ!小さいパンダちゃんいるし。」
「いるし」、じゃないんだよ。と。
子供ってもっとこう「あのパンダちゃんじゃなきゃヤダ!あれがいいの!」みたいな唯一無二感を出してくるもんじゃないの?とガッカリしてしまった。
防衛本能が働いた結果なのかもしれないけど、それはわからないけど、"あの"パンダちゃんは世界に1つしかないし、同じものを買えるわけではないし、失ったらもう戻ってこないんだよ。ということを理解は…難しいのかなぁ。


お子が1歳になるかならないかの時に思ったことがある。
できるようになったことを一緒に喜んで、褒めてあげていたのに、いつしか出来ないこと、出来ていないことに対して怒る時が来るんだろうな」
大きな足音を立てて、それが近付いてきている。






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