「新しい時代」への応答のための準備作業(2):ワーグナー「パルジファル」についてのメモ
三輪眞弘
モノローグ・オペラ「新しい時代」(初演:2000.4.22 京都、アルティー / 4.27 東京、紀尾井ホール, 前田真二郎(演出&映像))
50台のiMacとオペレータのための「新しい時代」(1999)
2人のオルガニストとメガフォンを持ったアシスタントのための「新しい時代」(1999)
Webのための「新しい時代 http://www.the-new-era.org/」 (1999)
混声合唱のための「新しい時代」(2001)
声(歌と語り)のための"Wach jetzt auf!"(2001)
「新しい時代」布教放送(2002.3.10より http://www.The-New-Era.org/ 一時停止後, 2010.8より rtsp://neuezeit.org:554/nz.sdp にて再開)
新しい時代の「流星礼拝」(2002, 2012.8.26 東京、サントリーホールにてケージ「ミュージサーカス」の一部として再演)
「再現芸術における幽霊、またはラジオとマルチチャンネル・スピーカーシステムのための、新しい時代」(2007.2.18 東京、東京日仏学院エスパス・イマージュ(CCMC2007))
三輪さんのモノローグ・オペラ「新しい時代」を、それが備えている射程に応じて理解しようと思ったとき、少なくとも私にとっては同時代に「素手」で 立ち向かうよりは、自分が「音楽」としては馴染みの深い時代の、でもそれ自体は疎遠な、というよりも寧ろ気になりながらも半ば無意識的に 避けてきたのかも知れない「パルジファル」を射影平面に使うことがもっとも効率的なアクセスの方法であるように思えます。「新しい時代」自体が、 「言葉の影、またはアレルヤ」と同様、重要でありながら、アクセスの仕方が難しいといった点、そして多様な解釈を呼び起すという点で、現代に おける「パルジファル」の位置を占める作品であるように私には思えます。私のもっている文脈からすれば寧ろ疎遠で、単純化すれば「敵」に 分類される、対決すべき相手である「パルジファル」を媒介に、「新しい時代」にアクセスできそうな気がしてきています。西欧の文脈でも 「パルジファル」は到底解決済みとは言えないようですし、現実的にも色々なレベルで(一連の)「新しい時代」(たち)は極めて間接的ながら 「パルジファル」の提起した問題への時間と空間を隔てた「応答」であるとさえ言えるかも知れない。
「パルジファル」に深入りするつもりはなかったのですが、調べていくにつれ、「パルジファル」が孕んでいる「問題」の重大さと、それに応じて書かれた 多くの論考の持つ重要性に半ば引き摺られ、更には「新しい時代」について考えるときの射影平面として、まさに恰好のものであることが ますます明らかになったこと、更には能楽との比較対照等の可能性についても考えることができたりして、当初の考えとは異なり、 「パルジファル」自体について調べておくことの意義の大きさを認識せざると得なくなったというところです。
「能」との接点ということでいえば「パルジファル」は、一つには「舞台神聖祝典劇」という性格付け(拍手するしないが問題になるといった点にも 共通性が現れていると思います)の点で、更には個別には「蝉丸」、あるいはクンドリーに焦点を絞れば「山姥」と いった能が(勿論、対応は部分的なものに留まらざるを得ませんが、やはり或る種の神話の「変換」の一つとして)思い浮かんでおり、興味をそそられます。 しかも「能」との構造的な比較を試みると或る種の変換操作なしでは、対応付けができない。(実は「新しい時代」も またそうです。そこで要求される変換操作自体は全く異なるものなのですが、変換が必要なことには違いない。もっともそれだけではなく、 「言葉の影、またはアレルヤ」、「総ての時間」といった一連の作品群そのものが変換のネットワークを形成していて、それらを総体として捉える必要がある点で、 一レベル外側の視点(それは端的に「音楽」の外側かも知れません)を要求している点に留意する必要があると思えますが。)
考えてみれば、「パルジファル」もまた、ありえたかも知れない伝統芸能・ありえたかもしれない宗教の「夢」なのかも知れません。現実にいまだ ヨーロッパでは復活祭の時期に、受難曲のような作品がそうであるように「パルジファル」が歌劇場で上演されることが多いという話をきいたことがあって、 こちらは季節感に拘らない番組をするようになってしまった「演劇化」した能よりも寧ろ徹底していると言えるかも知れないし、拍手をする、 しないといった不毛な論争が絶えず繰り返されるのも並行的です。
そして同時にその「夢」は、アドルノの言う「ファンタズマゴリー」でもありうる。作品自体が「夢」であり「ファンタズマゴリー」であるのと対応するように。 そこでは「魔法」が、現代の魔法としてのテクノロジーが幾重ものレベルで浸透している。そういう点では寧ろ、能よりも歌舞伎の方が、時代の 変化に応じた読み替えに積極的であり、西欧的な反応により近いと言えるかも知れません。
レヴィ=ストロースが「パルジファル」についての文章を書いています。 そこではワーグナーの「パルジファル」を一連の聖杯にまつわる「神話」の掉尾を飾るものとして評価しています。 レヴィ=ストロースはペルスヴァル神話を「問われることのない問い」意思疎通の不在による世界の停止・荒廃ととらえています。 構造的に(問のない答に対する疎通の過剰による混乱の物語である)オイディプス神話と相補的であると。
ところで、「パルジファル」については、アドルノも興味深い文章を書いていて、舞台神聖祝典劇の理念はヘーゲルに由来する 「芸術宗教」のそれであることを述べています。魔力から解き放たれた現実世界にはその意味の実体が欠けているのだから、美的形象に 形而上的な意味を呼び出させようという狙いであると。アドルノらしく、ただちにその希望は空しく、「パルジファル」は虚偽で あるけれど、そこから「消え失せた意味を単なる精神から呼び出そうとするのは不可能だ」という真実が生まれ出るのであって、意味を 呼び出す営みのなかなさを表現している点において、「パルジファル」は長い生命を保つ、というまとめをしています。いわば「パルジファル」 という作品はそれ自体が「亡霊」だといいたいかのようです。
「パルジファル」は(フランソワ・ニコラは否定していますが、例えばシャイエなどはそう捉えているし、少なくともそうした側面を否定しさるのは 作品の持つある側面を不当に無視することに陥る危険があるように私には思えます)若者のイニシエーションの物語です。 私はワーグナーをほとんど聴きませんが、「パルジファル」はそれが「奉納」であることを少なくとも目指しているもあって、気にしていたの ですが、当然のこととして三輪眞弘さんの「オペラ」である「新しい時代」がどうしても思い浮かびます。三輪さんが「新しい時代」や 「言葉の影、またはアレルヤ」に関して記したものをはじめとして様々な文章で繰り返し語っている「神話」の不可能性、 歌うことの不可能性は、上記のアドルノの言葉と共鳴します。「神の旋律」は、際立って少なく、したがってむしろ延々反復されつつ けるような「パルジファル」におけるモチーフの利用法や、それと裏腹の和声法、「トリスタン」までは解決を目指していたものが、ここでは そうした図式自体が解体され、解決自体が最早志向されず、結果として際立って静的なそれとともに、まさにレヴィ=ストロースの言う 「問のない答え」を音楽構造として支えているかのような和声法と突き合わせてみることができるように思えます。 つまり「問のない答え」が問題になっているのではないかという気がします。
第一義的には聖なる愚者であるパルジファルのイニシエーションの物語ですが、「新しい時代」との対照を考えたとき、 寧ろクンドリーの解脱に焦点を当てたらどうなるのか、ということに思い至ります。クンドリーはパルジファルにいわば「浄められ」、 そのことによって呪われた状態で永遠に行き続けなくてはならない運命から離脱します。それは「リインカーネーション」に他ならない。 ワーグナーの版では、不具の王アムフォルタスはクンドリーと対なのでそれは実はアムフォルタスにとってもそうであるはずです。
一方で、魔法の石としての聖杯をテクノロジーが自動販売機として実現したとするならば、聖杯物語を現代のエコロジーの視点で読むことが できるのではないかと思いました。更に言えば、レヴィ=ストロースがいわば通りがかりに用いた自動販売機の比喩は、むしろ原子力発電所に 読みかえることができるのかも知れません。人間が住む空間とは異なった論理によって、万能の力を際限なく生み出す 魔法の容器。その場合でも、エコロジー的な読みは依然として可能です。
近年のオペラの恣意的な演出には嫌悪感を持っていますが、空想理にこうした読み替えをするのは意味がないことではない。 こうしたことの素材としてなら「神話」は今でも力を持っているのだろうと思います。決して「復権」などではない、特に「音楽」が間に介在するので あればなおのこと、そんな簡単な論理では説明しきれないのは明らかですが。
一方で、もう一度、今後は三輪さんの「中部電力芸術宣言」の文脈における「子供でもわかること」を、イニシエーションの儀礼に折り返してみたらどうなるでしょう? 再び「問のない答え」、「問われることのない問の答」が問題になっているのではないでしょうか。
上に述べたように、「パルジファル」の問題系の抽象的な構造を抽出して、現在の展望に変換をするという過程をしたときに、私は否応なく、 三輪さんの「新しい時代」に行き着くのです。そして、こと今、ここでの文脈を問題にするなら、私にとっては「パルジファル」より「新しい時代」の方が力を持ちます。 その一方で、「新しい時代」に対して距離を取ろうとしたときに、レヴィ=ストロースやアドルノが「パルジファル」に見出したものは参照点として役立ちます。 両者の違いも含めて。そして勿論、「パルジファル」が色々な意味で極めて優れた作品であることは言うまでもなく、それゆえ参照点としての重要性もまた 明らかです。
特に「問いなき答」というのは非常に重要な視点のように感じます。答えのない質問が重要でないというのではありません。それは単にマーラーや アイヴズの時代に相応しかったというだけではなく、時代を超えて、自分自身の問題でもあると感じています。「新しい時代」と丁度双子のような関係に ある作品、「言葉の影、またはアレルヤ」に対して感じているのと恐らくは同一の疑問を私は一群の「新しい時代」に感じていているのですが、 実はそこでは「問なき答」が問題になっているからなのではということにようやく思い至ったように感じています。わからないという事態そのものが、 「答えのない問」の構造に由来し、その構造を自明視することによっていわば自ら視野を幕で覆ってしまい、その幕に移る影を追うことしかできなく なっているのであって、実は「問いなき答」という構造を考えるべきだったのではないか。勿論このことは、私にとっては遅ればせの「発見」であるにしても、 もしかしたら、三輪さんには最初からわかりきったことなのかも知れないし、おそらくはもっときちんと説明すれば、意識するしないに 関わらず、三輪さんが気づいていたことなのではないかと思うんですが。
少し違った言い方をすれば、私は「問なき答」というのを考えたことすらなかったのかも知れません。「問わないこと」が何をもたらすかに無自覚な ことは、逆に「問うこと」が孕む危険に対して無頓着であることでもありえます。でも私にとっての問題は、そうではなく、「応答すること」が自明であると 思っていること、自ら本当に「問う」ことをしていないのではないか、ということなのかも知れません。本当に難しいことは寧ろ適切に「問う」ことなのだと。
でも、もしそうだとしたら、私は既にもう「資格」がないのではというようにも思います。その一方で、レヴィ=ストロースが見出すある種のルソー主義、 「パルジファル」を徴づけている「無知」そのものがある種の仮象ではないかという疑いもあるのですが、そうした疑いが、自己正当化に動機づけられて いるのではと問われると、率直にいってそれを否定するのは難しい。
明らかなのは、いわばオルトテティックな「アーカイブ」を介して、私自身の中にすでに他者が住んでいることです。 そして問うのも答えを見つけるのも他者の力によるのであって、私が何かをするのではない。だから私には、イニシエーションというのが良くわからないのです。 それは私の場合、自己を確立することというよりは自己の中に他者を見出すことであったように思えます。いや、正確には自己確立とは、 他者の発見そのものであったように思えます。だから自分の歌など私にはない。それ以前にあるのは歌のない状態でしょう。歌を奪われているのは、 私が現代に生きているからなのかというのも、だから私には正しく測ることができない問題なのかも知れません。
その一方で、改めて「新しい歌」に引き付けて考えてみれば、いまだに私はイニシエーションに到達していない、もしかしたら、このまま 到達できないのではないかという気もします。あるいは永久にその途上のアーカイブに留まって、そのままリインカーネーションに 到達できないのではないかと。だから「パルジファル」がそらぞらしく、アドルノとは異なって、そもそもそこに否定的なかたちですら「真理」を見出すことができないのかも 知れない。「音楽」そのものが私には耐え難く感じられる。(それがバイロイトという媒体を想定したものであることおよび、それに付随する 様々な事柄もひっくるめて。)
丁度先頃に二期会が記念公演と銘打って「パルジファル」をやったようですが、演出は海外でやったもの(クラウス・グートのもの)をそのまま持ってきているとのことで、 興醒めに感じました。日本人ならではの解釈が可能で、しかも作品を壊さずにできるだろうに、新国立劇場にもその傾向があるようですが、 何かオリジナルのものを発信する意志はないのだろうかと感じないでもありません。二期会のそれは歌唱や管弦楽演奏の評価はすこぶる良いようですが、 巷にあふれるオーケストラのコンサートのプログラムと同じで、どうしてそれを、今、ここでやるのかという問題意識はほとんど感じられない。 西欧古典芸能の極東の出店で(演奏者も含めて)伝統を「消費」しているようにしか見えない。それなら「パルジファル」など、平均的な日本人の 問題意識とは縁遠いとして取り上げなければいいのに、と感じずにはいられません。
そして「パルジファル」を今、ここで演出するのであれば、それはまさに「新しい時代」を思い起こさせるようなものになるに違いない、 結果として、レヴィ=ストロース的な変換の論理で両者が繋がっているという直観はそんなに間違っていないだろうという確信が調べれば調べるほど強くなっています。 もっとも、だとしたら「パルジファル」を上演するよりも寧ろ「新しい時代」の再演の方が遥かに相応しいし、そうした視線で「パルジファル」を読み直せば、 非常に興味深い結果が(必ずしも結論ではなくて、問題提起かも知れませんが)獲られるとも思います。
せめて、例えば「パルジファル」についてエコール・ノルマルで行われたような企図をもった研究・講義が三輪眞弘さんの活動に対して、 日本のどこかで行われてもいいと思うのですが、、、私の知る限り、欧米ではそうした跡付けが徹底的に行われているのに、 日本ではそこが非常に貧弱で、ほとんどは欧米で行われたことの落穂拾いにしかなっていないのではないか。素人目にはそのように感じられてなりません。
と考えて、ふと思い当たったのが、三輪眞弘さんご自身がIAMASで今年度取り組まれている企画がそれに対応するものであるということでした。 逆にIAMASのような場所では、過去の作品の検討や分析よりも、新しいものを創造することに重点が置かれるのは当然でもあるし、 そうあるべきだと思うので、それ自体に違和感があるのではないのですが、「新しい時代」に限らず、同時代のそうした活動を跡付ける作業がどこかで 行われているようには見えないのが、こうした市井のアマチュアが一般には余技としか見做されないであろうこうした活動を止められない理由に なっているように感じています。残念ながら私にはそれをやる様々なリソース(時間も場所も含めて)が不足していますが、今後も引き続き、 残された時間をそうしたことにあてていこうと思っています。初めは単なる参照点に過ぎなかった「パルジファル」を主題としても、 延べ時間にしたらごくわずかな時間しかかけていなくても、それなりの分量の蓄積が既にできていると思います。目の前にある問題の空間を端から 踏破するだけでも、恐らくモノグラフとせざるを得ない程度の分量に達しています。しかもそれは「新しい時代」について語り、その問題提起に 応答するためのほんの予備的な作業に過ぎないのです。
パルジファルの音楽は、それが現実に場を持たない感じがしません。第1幕の前奏曲からして、それは既にあまりに現実的な空間を浮かび上がらせます。 それは具体的な現実の歴史の中の出来事ではなく、その中に場所も時点も持っておらず、過去に起きた歴史的出来事の再現を 企図しているのではないにも関わらず、ひどく現実的で、まるである可能世界で「現実に」生じた、あるいは生じつつある出来事のようです。 これもまた、あるいはこれこそが「ありえたかもしれない」出来事なのでしょうか?
時間論的に未来完了的な構造を備えていることとの関連について言えば、ここでは前奏曲で予示されてしまった「音楽的出来事」が展開されるだけであって、 新たな何かが到来することはありません。「再現」はここではベクトル性の深みを欠き、どこか遠くに来てしまって、後戻りが利かないという感覚は希薄です。 全ては起こるべくして起こり、仕組まれており、偶然やゆらぎのもたらす、本当の意味での「新しさ」がここには欠けているのではないでしょうか? 寧ろそれは、かつて起きたことの反復、これからも永遠に繰り返される出来事の提示のように感じられます。 物語のプロットは非可逆的性を備えているようであるにも関わらず、それは反復されうるように感じられます。 同じものがそっくりそのまま繰り返されるかのようです。
色々な演出での色々な時点と場所におけるパルジファルの上演は、演出家が如何に差異を意図し、オリジナリティに取り憑かれていたとしても、 結局は同じものの繰り返しにしかならないよう予め定められているかのようです。 しかしそれはある意味では当然で、演出を替え、衣装を、舞台装置を替え、歌手を、オーケストラを、指揮者を変えても、 音楽そのものは変わらない。ここでは音楽が全てを生じさせる根拠なので、所詮はそうした演出上の、舞台装置の、衣装の、振り付けの変化は、 或る種の展望の相違、視点の相違に過ぎません。ある春の日が、別の一日と気温も湿度も、光の調子も、何一つとして全く同一ということはないのに、 結局は同じ春の一日に過ぎないと感じられるのに近い感覚がそこにはあるように感じられます。 こうしたあり方を指して「神話的」と呼ぶのであれば、これはまさしく「神話的」であり、神話そのものと言っても良いようにすら思われます。 この作品が成功しているのか、失敗しているのかは、そこに何を求めているかによるでしょう。
私の上記のような印象は、何種類ものCDによる演奏記録、DVDによる上演記録の視聴に基づくものであることは確認しておくべきでしょう。 私は劇場で「パルジファル」を経験しておらず、いわばその「幽霊」のみによって作品に接しているに過ぎません。 このことが上記の印象にどれだけ寄与しているのでしょうか?もしかしたらそれは決定的であって、例えば二期会の公演を訪れればまた違った印象を 受けた可能性はあるかも知れません。私の個人的な環境における当座の布置として、「パルジファル」を挟んで、三輪さんの「新しい時代」のいわば 対蹠点にあるマーラーの作品については、第8交響曲にせよ、第9交響曲にせよ、私は実演に接した経験を持っている。同じく未来完了的な 構造を持っているとされる第9交響曲の時間性と、「パルジファル」のそれとは実質において異なったものである、というのが私の印象なのですが、 その判断は、こうした聴取の経験の条件に影響されているのでしょうか。そうかも知れない、とも思いますが、それは非常に一般的な事実関係という 平面においてそうである以上、否定できないといった意味合いに過ぎません。両者の時間性の差異は、聴取の媒体を含めた環境の差異であるよりも、 寧ろ、第一義的には両方の「作品」そのものの違いであり、あえていえばジャンルの差異がそれに影響しているといったところが妥当ではないかと 考えます。
そして私は、私が経験した限りにおける「パルジファル」において生じていると私に感じられた上のような事態を確認しながら、 一方ではベイトソンが「プリミティブな芸術の様式と優美と情報」で導入したフロイトに由来する 「一次過程」について、ただし直接的ではないにせよ、「冗長性とコード化」において、動物が行うイコンへのコード化と、人間の会話に現われるコトバへの コード化との中間に位置する事例として夢(と神話)に言及するくだりで再説されている件の方を思い浮かべ、 他方では、三輪さんの「新しい時代」のうち、自分が初演に立ち会うことが出来ず、その初演を収録した映像記録でその様子を確認するほかない モノローグオペラのバージョンと、こちらは8チャネルテープのための作品であるという制約を除けば、基本的に同じものの再生が何度も可能である 「再現芸術における幽霊、またはラジオとマルチチャンネル・スピーカーシステムのための、新しい時代」の東京日仏学院エスパス・イマージュ(CCMC2007)での 「初演」に立ち会った時のことを思い出しています。
「パルジファル」に関して、それが現実に場を持たない感じがしない、というひどく回りくどい言い方を私がしたのは、ベイトソンが夢の特性として指摘している 性質故ではないだろうかというように思えます。それは直説法的ではない。まさに「ありえたかもしれない」ものの提示であり、ある「パターン」の提示、 ホワイトヘッド的な永遠的客体の無時間性を備えた、括弧入れされた提示なのではないでしょうか。だからそれは、何度でも、変形されつつも、 同じ「パターン」として提示されうる。「パターン」の不変性を担うのが、ここでは「音楽」であるというように私には思えます。否、それはより一般に「音楽」そのものの 定義なのかも知れません。
ところで同じ部分でベイトソンは、演劇、美術、数学が夢の論理の精緻化であるのに対し、ダンスや音楽や詩はキネクシスとパラ言語によりコミュニケーションの 精緻化であると述べています。「パルジファル」は複合的、雑種的なジャンルであり、その両者を含みますが、いずれにしてもベイトソンが「プリミティブな芸術の様式と 優美と情報」で主張する、多層的な精神のうちの無意識の層の機能であることには違いありません。そしてここで問題なのはまさにベイトソンの言うとおり、 「作品が内包するメッセージ素材のどの要素が、芸術家の心の(意識から無意識へ至る)どの階層と結ばれているのか?」という問いなのではないでしょうか。 「芸術とは、われわれの無意識の層を伝え合うエクササイズである」というベイトソンの芸術についての定義は、「パルジファル」を経由して「新しい時代」に アクセスしようとこのように準備をしている私の文脈では非常に的確な定義であると思われます。
まだそれらを主題的に扱う準備は出来ていないとはいえ、この時点での展望の中で「新しい時代」はどのような姿で浮かび上がっているのかを確認して おくことは無意味ではないでしょう。「新しい時代」については、読み替えも含めた様々な演出が存在しているわけではない替わりに、作者自身が、 様々なヴァリアントを提示し、それらの布置が既に一つの星座を形成しているように見えます。主題的に扱ったときには、その一つ一つの座標と、 他の作品との関係を確認していく作業が必要ですが、ここでは「出来事」のパターンの総体を扱っているという点に注目してみると、その中でひと際光を 放っているのは、先ほど言及した、「モノローグオペラ」と、一見するとそれとそれを囲繞する作品群とは離れた位置に孤立した位置を占めているかに見える 「再現芸術における幽霊、またはラジオとマルチチャンネル・スピーカーシステムのための、新しい時代」の2つのように私には見えます。この2つの作品は それをジャンルと言うか、媒体、素材と言うかはともかく、同じ出来事の過程を異なる展望から、その展望の違いに応じた仕方で記述したものであるかに 思えます。
事実関係として数年の隔たりを経て、その間に「逆シミュレーション音楽」とフォルマント兄弟名義での様々な試みを介しているという事実関係も 無視できませんが、それだけではなく、「再現芸術における幽霊、またはラジオとマルチチャンネル・スピーカーシステムのための、新しい時代」は、その 作品そのものが、モノローグオペラを(いや、より正確にはモノローグオペラに定着された出来事のある「パターン」を、というべきなのかも知れませんが) 後から想起しているかのようです。ところで「想起」というのは、少なくとも人間という有機体が行うそれは、記録されていた過去の再生ではありません。 そしてそうした人間が創り上げたテープ作品であるそれもまた、テープ作品という性質ゆえに、全く同じものの再生を何度も行えるにも関わらず、 その作品が提示する出来事の方は、いわば「オリジナル」の忠実な反復ではありえない。それは新たな「創造」に他ならないということを、ある意味では 「自覚をもって」この作品は告げているように思えます。ここで「自覚を持つ」主体は、まずは作者ですが、作品そのものでもあります。或る意味では テープ音楽という素材の形式の持つ条件を逆用して、かつてモノローグオペラが上演した出来事を含む複数の出来事がそこでは縒り合わされ、 それぞれは変形を受け、重ねあわされる。「初演」の折には作者自身によってラジカセが置かれましたが、その事が明確に告げているように、 そこには装置が介在し、装置を経てしか出来事を受け取ることはできない。そしてそれは聴き手は勿論、作者もまたそうなのです。 ベイトソンはフロイトが夢を「夢の作業」による加工・変形を経た二次的なものであると考えたのを、意識の側の自己正当化に基づく或る種の 転倒としていますが、そこに自己正当化を嗅ぎ付けて批判的な立場を取る取らないに関わり無く(というのも、ここでそれを提示するのもまた、 ベイトソン的には「一次過程」である芸術作品なのですから)、その転倒のプロセスの芸術的精緻化がこの作品であるというように私には思えてなりません。
ベイトソンが言うように、 有機体はすべて、精神全体のうちのささやかな部分を意識するだけで満足しなくてはならないのですが、それだけでなく、意識が受け取ったものは、 自分自身を含む精神の「幽霊」に過ぎない。意識はわかりきったこと(身体化された技能)、見たくないもの(抑圧されクリプト化された対象)を 削除して、自分に課された課題に対して合理的・経済的に情報を処理するように進化の過程で形成されてきたものなのです。だから、あえて 自分の背後を覗こうとしてみても、そこにあるのはバラバラになった死体であり、幽霊でしかないといったことが起こるのです。つまりまず最初に、 意識と無意識の関係がもたらす幽霊性があります。
現代のテクノロジーがもたらした様々な装置は、もともと人間の身体の不充分さを補う補綴的ものとして人間自身が生み出してきたものですが、 そうした身体のいわば「代補」としての装置は、例えば一方では人間の記憶の不完全を補い、完全な過去の再生、反復を可能にするかに 見えます。そして実際、記憶の補助としての再生装置の効用を無視することはできないでしょう。また技術の向上がもたらす再生の 精度は、いわゆる「オリジナル」の忠実な再現に向けて向上し続けていることも事実でしょう。あたかも現実であるかのように、過去を経験する ことが可能になる日が到来しないとも限りません。三輪さんが、「魔法の鏡、または、三浦基氏に宛てた「光のない」の私的パラフレーズ」で 記号の「透明性」について語るのは、こうした記録媒体に備わっている透明性、ベルナール・スティグレールの言う「オルトテティックな」性格を 捉えてのことなのです。
けれども、ここで逆転が起きます。テクノロジーが可能にするかに見える「あたかも現実であるように」は、再生の忠実さを全面的に 担保するわけではないのです。 メディアが透明になればなるほど、人間とて例外ではなく、そこから原理的に逃れられない、有機体自体が構造上持っている意識の量的・ 質的な限界のもたらす幽霊性の「リアリティ」が増すという逆説的な状況が招来されるからです。「原理的」という意味は、それらの限界は、 寧ろ意識を備えた有機体の構造そのものに起因するものであるがゆえに、如何なる技術的手段をもってしても、機械による補助・代替が 為されたとしても、その構造自体が変わらない限りは逃れられないといった意味合いです。つまり「幽霊性」は有機体のシステムを定義する 数理に由来するものであるということです。
スティグレールもまた「意識はそれ自体の内では主ではなく、自らの統制を逃れるいくつもの力を己の内に宿して」おり、「精神を迎える主として、 いくつもの精神=幽霊によって住まわれ、これらの精神=幽霊は意識に取り憑き、腹話術さながらに語っている」という事態を、 彼がフッサール現象学における第一次過去把持と第二次過去把持の区別を踏まえて提示する「第三次過去把持」、記憶のための様々な テクノロジーが可能にする、だがとりわけその中でも「オルトテティックな」性格を備えた「ヒュポムネーシス的な」それが明らかにすると述べています。
そうした有機体である人間の「芸術」、しかもテクノロジーに囲繞された現代におけるそれは、一体どのようなものでありえるでしょうか? 「芸術とは、われわれの無意識の層を伝え合うエクササイズである」というベイトソンの定義を保全し、意識を持ってしまった有機体の、 その意識が己の構造上の制約の中で、それでも精神の全体を垣間見ようとする営みとしての「芸術」は。ベイトソンの言う「魂の部分間の 統合 - とりわけ、一方の極を「意識」、もう一方の極を「無意識」とする精神の多重レベル間の統合」を実現し、「優美さ」を回復するためには どうであるべきなのでしょうか。
起きてしまったことを恰もなかったかの 如くに無視して、まだ「神話的」なものが手付かずのまま可能であるかのような挙措は、既に状況の中で病んでしまっている精神にとって、 かりそめの安らぎを与えるものであっても、状況を動かして解決にもたらすことはできないのではないでしょうか? 一方で、ますます洗練され、透明性の度合いを高めていくテクノロジーに乗じて、既に技術的には実現されつつあり、将来は恐らく当たり前の ものになるであろう拡張現実や仮想現実を先取りしてプレゼンテーションしてみせ、それが可能にするかに見える意識間のシンクロナイゼーションを 示して見せたり、やはりテクノロジーの進歩が可能にするであろう媒体の透明性による仮想的なものと現実的なものの融解を演出し、存在でも あり非存在でもあるような新たな様態を提示することは、意識の構造そのものに由来する分裂を表面的に糊塗することにしかならず、 却ってそうした状況を強化するばかりなのではないでしょうか?
既に予め分裂している状態で試みられなくてはならないのは、それが既成の意味合いでの「芸術」から逸脱するものであるとしても、寧ろ、 幽霊を「歓待」し、その他性に応答することによって受動的に超越がもたらされるといった構造を指し示す限りにおいての「対話」を試みること ではないのでしょうか。「対話」が生じるためには、もっと一般に情報が、意味が生じるためには、2つのシステムが必要です。 2つであるためには夫々が自律的である必要があり、そのためには両者の間に隔たりが、差異があり、お互いがお互いにとって偶有性の 契機でなくてはなりません。相手がその場に不在であることは「対話」の欠如を意味しません。勿論、その場合には「対話」の成立の保証もまた、 無いには違いないですが、逆にそうした状況でしか「対話」は成立し得ないような構造になっているのです。
「新しい時代」という一連の作品達の布置、星座は、それ自体、そうした問いに対する応答の試みであるということは、確かに言えることのように 私には思えます。それはテクノロジーがもたらすメディアの機能に対して意識的であらざるを得ないでしょう。 「再現芸術における幽霊、またはラジオとマルチチャンネル・スピーカーシステムのための、新しい時代」がそうした状況に対する応答であるのは 既に述べたように明らかに思われますが、それでは「モノローグオペラ」の方はどうでしょうか? ここでそれを十分に語る準備はまだ出来ていません。けれども、例えば「光のない」闇の中で行われる 儀式を赤外線カメラで写した画像をあえてディレイさせて映し出すテクノロジーの利用の仕方が可能にする「現実という虚構」の提示、 更にはそこでの複数の「声」の扱い、つまり4人のキーボード奏者によりフォルマント合成される「声」、それに応答する人間のいわば「生の」声 といったものが介在しつつ成立する「儀礼」の上演は、しばしば陥りがちな単純な「意識の拡大」による心の癒しの獲得とは異なったものを 提示しようとしているように見えます。
この作品が「モノローグオペラ」と定義されている点も示唆的です。「パルジファル」における「対話」は 実はコミュニケーションの不在を、擦れ違いを提示するものであったのに対し、ここでの「モノローグ」は、実はより「対話的」ではないでしょうか? 一つの声は、既に複数の声の合成なのです。そして一見すると自閉的で、或る意味では自己破壊的なものであるとさえ言える儀礼を 作品として提示する試みは、ここでもまたベイトソン的に「一次過程」として儀礼を、その「パターン」を提示しつつ、一見したところ「モノローグ」的な 層の背後に存在する複数の声の反響を、複数の時間の流れを浮かび上がらせているのではないでしょうか。「モノローグ」というのは、 ですから、端的な状況の構造を提示したものなのです。この作品は、「歌」を歌うことは、そのようにしてしか可能ではないのだと いう状況の構造の証言なのではないでしょうか。「歌」もまた、パウル・ツェランがビューヒナー賞受賞講演(「子午線」)で「芸術」と対立させた 「詩」に他ならず、ハンザ自由都市ブレーメン文学賞受賞講演においてマンデリシュタームの「対話について」を引用しつつ、 「詩」がそのようなものであるとした「投壜通信」に他ならないのだと。秘教的でコミュニケーションを拒絶しているとさえ言われたツェランの詩篇が、 実際には「対話」的なものであるように、一見、自分のイニシエーションのために歌われる歌は、意識の背後の精神と、その彼方の他者に対する 「呼びかけ」なのではないでしょうか。そしてそれはマイケル・ポランニーが「個人的知識」で述べた「コミットメント」でもあるのではないでしょうか。
ポランニーの「コミットメント」は、一方で客観的で厳密な手続に従って遂行されているかに見える科学的探究の場面においても、 その最先端においては或る種の主観的な確信に基づく選択が為されていることを証言するとともに、そうした選択が全面的に意識的な 行為であるわけではなく、暗黙知の次元を含み持つこと、つまりそれは意識的関与という側面の一方で、前定立的な「しがらみ」でも あることに留意しておきましょう。そしてポランニーが同じ「コミットメント」を神話や宗教的儀礼に対する関わりの場面においても適用していることを 思い起こすべきでしょう。「祈り」もまた「コミットメント」であり、両義性を備えたものとして捉えるべきなのです。そしてこれを冒頭に触れた「パルジファル」に ついてのレヴィ=ストロースの指摘と関連づけるならば、「答えのない問」ではなく「問いなき答」という構造の存在への気づきがここでも問題に なっているのではないでしょうか。正しく「問う」ことこそが問題なのではないでしょうか?
そしてその事を踏まえて言えば、三輪さん自身が別のところで書いた「音楽」の定義、 「人間ならば誰もが心の奥底に宿しているはずの合理的思考を越えた内なる宇宙を想起させるための儀式のようなもの、 そこには自我もなく思想や感情もない、というより、そこからぼくらの思考や感情が湧き出してくる、そのありかをぼくらの前に一瞬だけ、 顕わにする技法」は、単に意識を融解させることで無意識なものを噴出させることを目指しているのはないのは確かなことだと思います。 繰り返しになりますが、それはベイトソンの言う「魂の部分間の統合 - とりわけ、一方の極を「意識」、もう一方の極を「無意識」とする 精神の多重レベル間の統合」を、現代の日本において実現し、「優美さ」を回復する試みなのです。
(2012.9-11, 2012.11.18公開, 12.17,22補筆, 2013.5.3修正, 19改訂, 2024.8.2 noteにて公開)