日記・ポリフォニー・門:ジッド『狭き門』からモノローグ・オペラ「新しい時代」へ(25)
25.
だがそれでもなお、アリサに欠けていたものが何であったか、というのはジェロームとともにアリサを記憶するものにとってのみ相応しい問いだろう。 ベンヤミンの短いが重要な「狭き門」についての文章で、ベンヤミンはジッドの企てはそもそも最初の構想からして不可能事であったと 語っている。ところで、ベンヤミンは、紫水晶の十字架について、全くの勘違いをしている。それはベンヤミンの主張にとって実は致命的で、 「狭き門」の破綻を指摘するベンヤミンの主張が、今度はその一点から破綻することはないのか、読み手は慎重に見極める必要があるだろう。 恐らく、ベンヤミンの主張は無傷ではあり得ないのだ、、、にも関わらず、ベンヤミンの主張をとりあえずは受容した上で、それが無に帰したことを、 だが記憶し、記録することによって、読者が(最早恐らくはジッド自身の意志とも、意図とも無関係に)アリサに対して差し伸べるのは、 アリサ自身が拒んだ、共に苦しむ姿勢ではなかったか?否、これすらアリサに対しては言い過ぎの懼れなしとはしないだろう。逆説的なことだが、 自己放棄を拒絶する傲慢さをアリサに付与したかったらしいジッド自身が決して持とうとしなかった罪の意識をアリサは確かに抱えていた。 アリサに欠けていたのは、ジェロームの行動などでは決してない。そうではなくて、共に苦しむという姿勢、他者の歓待、対話ではなかったのか。 同情、憐みの気持ちがアリサに欠落していたとは思わない。社会的な視点が欠けていることを問題にするのでもない。(ジッドの行動とともに、 後のレシが、そうした視点の移動が何の解決にもなっていないことを証言してしまっている。)そうではなくて、ドストエフスキーが「カラマーゾフの兄弟」で 中心に据えた、あの「共に苦しむ」姿勢、レヴィナス的な意味での他者への倫理的関係、デリダ的な意味での歓待の手前にアリサがいて、 そこに到達できなかったように見えることを、アリサを記憶する者は、己の問題として引き受けなくてはならないだろう。恐らくはパスカルへの共感と、 にもかかわらず最後にはアリサがパスカルをすら拒んで、沈黙を選んだこと(それ自体はだがやはりパスカル的な挙措であると言えるだろう)の 持つ意味を突き詰めることが必要となるだろう。