何でもかんでも意味づけしない。頭の中を自由に、気負わず気楽に生きていきたい。W杯独戦勝利サプライズにも思った……。
◆視野狭窄
物事にいちいち意味づけしていると、その意味以外のことを受け入れなくなるのが世の常。
ルール化や定義づけも然り。
まずはほどほどが肝心。
目の前に横たわる意味にこだわらず、見たまま感じたままを素直に受け入れることが大切。
他人の評価に引っ張られず、想定外の思いつきが頭に浮かぶ可能性を排除しないこと。
特に、数字や規則に縛られてしまうと、自由な発想や気づきに至れなくなり、行き着くところ人間を見失う原因にも。
◆自信がないから数字に拘る
だが、人は数字が好きだ。
数字を根拠にしたものしか信じない人もたくさんいる。
なぜ?
人は自分に自信がないから数字に拘る。
数字は単純明快にものごとを表現できるツールだから受け入れられやすい。
他人を意識する。他者との考えの違いから自分に自信がもてず不安を覚えるもの。
他人の考えが溢れる時ほど自分に自信なく数字に頼る。自分の感性に自信がない時ほど数字で武装するもの。
人間の弱さの現れ。
それでもよいのだが、それが先入観につながることを否定できない。
数字で意味づけすると先入観に支配され多様な考えを排除してしまうものだ。
多様な考えとは、つまるところ人間そのもの。
自信のなさから人間を排除しないか心配だ。
◆意識を自由へ
こんなことも感じる。
本を読んで著者の表現や言葉をそのままに受け入れるのではなく、必ず自分の言葉と表現に変換する。
そうすることで他者の考えに縛られず洗脳されず、自分の意識を自由へと開放する。
頭を自由にしておくため思考停止しないようにしたいと思う。
◆数字根拠の代物には慎重な態度
なんだかそう考えると数字を羅列する、例えば「統計」はきわめて危険なものに感じてきた。
日本が逆転勝利に歓喜したサッカーW杯ドイツ戦。
日刊スポーツ紙面に『W杯では先に失点した試合では、過去9戦7敗2引き分けで「勝率0%」。ましてや相手は優勝候補のドイツ。』とあった。
統計に詰め込まれた数字は予め決まった数値の羅列にすぎない。そこに人間がもっている想定外や未知につながるものは感じない。
数字は数字で表現できる範囲を超えられない。その範囲を超えてしまったら、数字は間違いのレッテルをはられてしまう代物。
その先のことは人の感性が担うものだから。
数字は雑多なもの(多様なもの)を規則正しくシンプルに客観的かつ明快に見せる便利なツールなのは確か。
万人に対して混沌とした状況をわかりやすく意味づけできるのだが、多様性の時代にはそれがかえって危険なことに思えてくる。
不確実な世の中にあって、予め決まった数字から先々を予測することはよほど注意深く考えないと間違いを起こす原因になりそうな印象。
なぜか?
VUCA時代では、人の思いや考え方は単純明快にまとめられないからというだけのこと。
当たり前(笑)。
◆ルール化や数字化は支配化のツール?
なぜ、人はルール化や数字化が好きなのだろうか。
歴史上、過去から規則や数字を重用してきたのは、バラバラをまとめるため?
まとめるとは人々を支配するということ。
国家とか会社、学校、地域とか。
自由ということに対峙するツールだったのは当然のことだったかもしれないね。
いま、インターネットでつながり多様な考え方に触れられる時代にある。
しかもボーダーレスで情報には国境がない。
(誰かこんなこと言っていなかったか?)
人種も身分も性別も関係なく公平に行き渡る。
歴史上かつてこんな時代があっただろうか。
世の中にある数多の考え方を潰さないためにも、ルール化や数値化はほどほどにしておいたほうがよいと感じる。そうしないと支配が続いた悲しい時代に回帰する気さえしてきた。
話がどんどん逸れてしまっているが、がんじがらめだった頭の中を、様々な意見や考えがあって当たり前という前提へリセットし、そこにあまり意味づけせず、自分自身を自由の中に解き放ち気楽に生きていきたい。
まずはルールや数字にほだされず、自由になって気楽に生きていきたいな、猫みたいにね…。
次のコスタリカ戦、勝利を期待!
yoitenki4110