信頼。多様性社会の「個の尊重」と「公平性」のねっこにあるべきもの?
先日、多様性社会には「公平性」と「個の尊重」が大切と投稿させていただきましたが、それだけだと「公平」な「個」がバラバラに迷走する社会もちょっぴり想像してしまいました。
そうならないためにはもうひとつ、「信頼」というキーワードが社会に浸透していなければならないのかもしれませんね。
そんなことをちょっぴり感じました。
信頼のあるなしは例えば他人を信じられるか信じられないかとしてみると…。
そもそも他人は自分の思い通りにはいきません。みんな考えも好みも全く違う生き物ですもね。
信頼はみんなが全く違うことの容認なのでしょうかね。
他人に自分の考えは通用しないし、従ってくれないけれど、それって「お互い様」なことなんだっておおらかな気持ちになれるでしょうか。
そんなふうに全く違う他人を信じることができる社会はempathyのある社会と聞いたことがあります。
残念ながら、日本人にはあまりこのempathy的感情は備わっていないらしいのです。
ゆえにempathyは日本語に簡単にひと言で訳せない単語のひとつ。
一般的には「共感」と訳されていますが、どうもかなりニュアンス違う。
正しくは、『相手の考えが自分には全く理解できない、けれど自分がその相手の立場だったらそう考えるのもきちんと理解できる』みたいな感じ。
日本人にはなんだそれ?という感情。
「妥協」とも違うし「黙認」や「無関心」とも違う。「同情」とは全く違うし「共感」もやはり違う印象です。
このempathy的な感情を備えられたら、全く違う相手への「信頼」も手に入れられるのかな。
そうすれば、多様性社会を迷わず安心して歩けそうな気がしました。
全く違う相手と腹割って話し合えるかどうか…。忖度も過剰な気遣いではなく、自然に利他的に大人な態度をとれたら良いな。
yoitenki4110