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soeji
「誰がこんな病気にした」という怒りはどこに向ける?
「誰がこんなんにした、許せない、辛い」
ジャーナリングをして、自然に出て来た言葉。
そうか、俺はこの病気になって許せないなか。
けど、一体誰を許せないのか?
双極性障害という病気になったのは誰のせいか?
考えど考えど、その答えは一向に出てこようとはしない。いろんな要因はあるだろうが、ほとんどサイコロを振って出たような感覚で、病気になったのだろう。
渡辺和子さんの書かれた『置かれた場所で咲きなさい』の中で、2年ほど鬱になったことが書かれてあったと思います。渡辺さんは「鬱だって神様から頂いたもの」だと考え、鬱になったのも摂理だったと、確か書かれてあったと思います。
私には、まだそんな風に考えられる度量はないなぁと思います。
病気になったことは悔しいし、苦しいし、いつだって死んでしまいたい。周りのみんながどんどん成長していき、心無い奴らは私のことを陰で今日もバカにしている。その現状を打破しようとも、身体がついてこない。
一体俺が何をしたんだ。なんでこんな苦しみを神は与えたのだ。
上記したが、いくら考えても答えは出ないのだ。
渡辺和子さんの著『置かれた場所で咲きなさい』は本当であるならば、私はこの病気を抱えながら、今ここで咲くための努力をしなければならない。それは、まるで、将棋の歩になったかのような感覚。一歩、一歩しか前に行くことは出来ない。
それしかないか。と、ほぼ諦めの境地。
一歩一歩、前に進み、いつの日か金に成ることが出来るように。
ただ、また鬱になってあの不安な中を生きることは、怖くてしかたない。私はキリスト教徒ではないが、神に祈りたいくらいだ。