「シンエヴァ」視聴後の今、敢えて旧「エヴァ」を見る
今回は、「新世紀エヴァンゲリオン」旧シリーズについて書いてみたい。
というのも「シンエヴァ」を見終わった後、「旧シリーズをイチから見直してみたい」というモチベが湧いてきちゃったんだよね。
で、先日、ようやく「Air/まごころを、君に」までの視聴を終えて、気持ちにひとつの踏ん切りがついたところです。
旧作を見終えて、まず率直な感想は
「旧『エヴァ』って、『シンエヴァ』に比べて遥かに難しい!」
ということである。
なんていうかな、成分無調整の原液を飲まされたような気分だよ。
仮に「シンエヴァ」がカルピスウォーターという一個の完成形だったとして、旧「エヴァ」の方はどう考えてもカルピス原液である。
だから水で希釈が必要だし、あとコップと氷も必要。
90年代はよくもまぁ、こんな原液なんかを飲んで「おいしい」なんて言えたもんである。
・・あ、これはあくまで映画に対しての話ね。
この劇場版完結編に至るまでの前段階、TVアニメの方はとても良かったのよ。
90年代当時、なぜ我々はこのTVアニメに惹かれてしまったのか、改めて見るとその理由がよく分かる。
それはね、普通にこれ、めっちゃクオリティが高いんだわ。
何なら、この95年頃の他アニメと比べてみたらいいさ。
まず、「構図」のとり方が他作品と全然違う。
これって、きっとアニメじゃなく実写映画における表現技巧だよね。
この違和感が、当時の視聴者の琴線に触れたんだと思う。
おそらく、この表現技巧の元ネタになってるのは、次の3名の作家性。
①実相寺昭雄
②諸星大二郎
③幾原邦彦
これって、庵野秀明自身の極めて個人的な嗜好だと思うんだけどさ。
特に、①の比重はかなり高い。
当初、我々はこれを「ロボットアニメ」の一種として捉えてたわけよ。
それも意図されたミスリードだったわけだが、途中からエヴァという機体の実体がメカでなく、怪獣に近いものだということが明らかになってくる。
最大のキモは、ここだよね。
もし「エヴァ」が普通に「ロボットアニメ」だったら、ここまでの社会現象にはなっていまい。
90年代半ばという時期は、正直「ガンダム」の人気ですら下降線を辿ってたわけで・・。
そこに食い込んできたのが、「エヴァ」という今まで見たことないタイプの異物ですよ。
特に異物感が強かったのが、碇シンジという特異な主人公の存在感。
正直いって、ここまで不快な主人公というのもあるまい。
そりゃ「ガンダム」のアムロも、「Zガンダム」のカミーユも不快なキャラには違いなかったものの、それでもシンジほどのキモさはなかったと思うよ。
普通、こういう精神的未熟な若者は、様々な苦難を乗り越えて成長していくのがセオリーってもんだろう。
実際「シンエヴァ」のシンジは、そういう姿を最後我々に見せてくれてたと思う。
でも旧作「Air/まごころを、君に」のシンジは、正直いうと最後の最後まで成長らしい成長をしていないんだ。
ひたすら、落ち込む
時々、錯乱する
最後は、ほぼ廃人
作中に、シンジがカッコいいところが1個でもあっただろうか?
ただひたすら落ち込み、自分の殻に閉じこもり、周りのあらゆる干渉を拒絶し、一応最後は初号機に乗ったにせよ、それも自発的じゃなく、ただ流されたままのなし崩し的なものだったし・・。
といいつつも、最後の最後は「もといた世界」を選択したことで、
「あぁ、これでやっとシンジもマトモになれるかも・・」
と、ひと安心した矢先に、
・・お前、何でアスカの首を絞めてんの?
こいつ、これだけの大きな試練を潜り抜けても、結局サードインパクト前と何も変わってないじゃん?
このへんの庵野監督の意図が、私には全く分からん!
そういう意味で、旧作は「シンエヴァ」より遥かに解釈が難しいんだよ。
というか、こんなオチでホントによかったんだろうか?
「Air/まごころを、君に」の3年後、庵野さんは「式日」という実写の映画を発表している。
プロデューサーの鈴木敏夫さんは、これを
「より深く『エヴァ』の本質が分かる、いわば“副読本”みたいな映画だ」
と語っており、確かにこの当時の庵野さんの心情を綴った、良質なテキストだと思う。
あとストーリーも、「エヴァ」にやや似てるかと。
ヒロインが、ただひたすら現実逃避してる系の話だよ。
で、この映画のヒロインも最後はシンジ同様「還ってきた」オチなんだが、それも「試練を乗り越えて、ひとまわり成長した」系のオチでもないのさ。
ただ、「還ってきた」。
その「還ってきた」場所がよりよい場所なら救われるけど、必ずしもそうとは限らない。
・・というのも、「Air/まごころを、君に」に話を戻せば、作中にこういう実写映像パートが挿入されてたことを皆さんは覚えてるかい?
この映像を挿入した、庵野さんの意図は何だと思う?
ちなみに、これが挿入されたのは作中サードインパクトの発動直後のことで、この意味不明な実写映像を背景に、シンジと綾波は次のような会話をしてたんだ。
綾波「都合のいい作り事で、現実の復讐をしていたのね」
シンジ「いけないのか?」
綾波「虚構に逃げて、真実をごまかしてたのね」
シンジ「僕ひとりの夢を見ちゃいけないのか?」
綾波「それは夢じゃない。 ただの現実の埋め合わせよ」
シンジ「じゃあ、僕の夢はどこ?」
綾波「それは、現実の続き」
シンジ「僕の現実はどこ?」
綾波「それは、夢の終わりよ」
綾波がそう言った後、彼女の首がモゲ落ちるというワケ分からん映像・・。
多分、庵野監督的には実写映像を「現実」のモチーフとする意図として挿入したんだろう。
その現実が、たとえば「映画館に来てる観客たち」の映像だったりするんだが、よく見ると指でブーイングポーズを示してる人が映ってるんだよね。
さらに、ネットの書き込みらしき映像が続けて挿入される。
中には、「庵野殺す!」という書き込みも・・。
このメタフィクションっぽい演出は、いかに「現実」が残酷で汚らわしいかを示したものだと思う。
それを踏まえた上での、シンジと綾波の会話である。
必死こいて作品を作ればブーイングされ、「殺す!」とまで言われ、それでも「逃げちゃダメ」なのか・・?
これは、庵野さん自身の精神世界における自問自答である。
ここから先のオチは、皆さんもご存じだろう。
シンジは自分が逃げた先、「自分が傷つかない世界」というのは自分自身が存在しない世界と同義であることを悟り、結局もといた世界への帰還を選択する。
積極的な肯定と言うよりは、むしろ消去法的な肯定なんだけど。
もちろん、これはメタ構造として
シンジ=庵野秀明
なのよ。
別に、シンジ(庵野さん)は全てが吹っ切れたというわけじゃない。
ただ、結論だけをいえば還ってきた。
で、気が付くと、隣りにアスカがいる・・。
これが綾波じゃなく、アスカというのがポイントだよね。
妄想の中でも「あなたとだけは、絶対に、死んでもイヤッ!」と言い放ったアスカがそこにいるんですよ(笑)。
これは、さっきの実写映像でブーイングしてた観客、およびネットの「庵野殺す!」という書き込みにもイメージがリンクし、メタ構造としては
アスカ=現実
を意味するんだ。
で、思わずシンジ(庵野さん)はアスカ(現実)の首を絞めちゃう(笑)。
このまま絞め殺すのかと思いきや、まぁ、できるわけがないよね。
最後は女々しく泣き崩れて、アスカに「気持ち悪い・・」と言われたところで終幕(笑)。
ちなみにだけど、先述の「式日」公開の際、鈴木プロデューサーは庵野監督という人物について、こういうコメントをしてるんですよ。
「よく『自伝』と称した小説や映画があるが、そのほとんどが、美化が入ったフィクションでしかない。
しかし、庵野は違う。
そもそも彼は、『等身大の自分自身をそのままさらけ出すのが映画作りだ』と頑なに信じこんでいるのだ」
そういや庵野さん自身も、こういうことを語ってたよね。
「自分としては、世の中とかアニメを好きな人の為に頑張ってたつもりなんですけど、 庵野秀明をどうやって殺すかを話し合うようなスレッドがあって。
どうやったら一番うまく僕を殺せるか、 っていうのがずっと書いてある。
こうやって殺したらいい、こうやって殺したらいいって。
それを見た時に、もうどうでもよくなって。
アニメを作るとか、そういうのはもういいやって・・」
で、そこから2度ほど自殺を考えたそうだ。
1回目は電車への飛び込み、2回目は屋上からの飛び降り。
そこに鈴木プロデューサーが救いの手を差し伸べて、撮らせた映画がアニメでなく実写、それが「式日」だったという。
つまり「エヴァ」⇒「式日」の頃の庵野さんって、結構精神が不安定な状態にあったということなんだ。
・・分かりやすく表現するなら、
「Air/まごころを、君に」は、 太宰治の「人間失格」みたいな映画
といったところかと。
率直にいうと、作品の完成度では
旧作<シンエヴァ
だと思うけど、でもヤバさ、闇の深さという点では
旧作>シンエヴァ
だよね。
あるいは100年後、1000年後、「名作」としてアーカイブされているのは、意外と旧作の方だという可能性もあると思うよ。