聖徳太子とヤマトタケル、息子の意外な共通点
皆さんは、ヤマトタケルって実在したと思う?
彼は、とにかくキャラが立ってるよね。
戦えば無双の強さで、武器には草薙の剣という聖剣を持っている。
これってファンタジー物に出てくる「勇者」の設定、そのまんまだ。
あまりにも出来すぎのキャラなので、なんか作り物っぽい
私は、ぶっちゃけ実在してないと思う。
いや、正確にいうとモデルになった人物は多分いるんだよ。
ヤマトタケルは誰かが創作したキャラというより、日本全国に点在する英雄伝説をひとりのキャラに集約した「まとめ」っぽい偶像である。
そうであることの証拠に、彼は遠征の範囲が広すぎるんだ。
どんだけ走破してんのよ。
しかもこの時代、馬に乗ってではなく徒歩だったんだろ?
普通に目的地に行くだけでもかなりの日数がかかりそうだし、これだけの数の討伐、とてもひとりの人間でこなせる仕事量じゃないと思う。
つまり、これは複数の人間でこなしたと見るべき。
そしてそれら複数の人間の英雄譚が、ヤマトタケルというひとつの偶像の中に集約されたと見るべきだね。
古事記では英雄になる前の彼の描写がかなりエグくて、恐ろしくも自分の兄の手足をもいで殺しちゃうんだわ。
凄いでしょ、お父さん褒めて、と本人は思ってたみたいなんだが、当然父親はドン引きするわけで、なかば追放に近い形で討伐の遠征に出されてしまう。
そしてサイコっぽくて不気味な少年だった彼が、遠征に出るとなぜか爽快な体育家系男子になるあたり、これってヤマトにいた時と同一人物か?と疑ってしまう。
というか、同一人物じゃないんだろうね。
このへんは、スサノオにも共通している。
別々のエピソードを繋ぎ合わせてるもんだから、キャラの一貫性が最初から損なわれてしまうということさ。
彼のエピソードで最も有名なもののひとつを挙げれば、熊襲征伐の際、敵の本拠に女装をして忍び込むくだりだよ。
女装した彼が美しいもんだから、敵のボス格が彼を気に入ってしまう。
それほどヤマトタケルは美少年だったのか?
かつて東宝がこれを映画化した際、ヤマトタケルに三船敏郎をキャスティングしたもんだから女装のくだりがエグいことになってたよ。
まあ、キャスティングミスだね。
特殊性癖でもない限り、これを気に入る熊襲はいない。
東宝はこの痛恨の失敗を悔やんでいたのか、後になって再びヤマトタケルの映画化にチャレンジしている。
もはや、ヤマトタケルの原型すら残ってなかった・・。
さて、話を本題に戻そう。
ヤマトタケルを語るにおいて最も重要なのはその英雄譚ではなく、もし彼が架空のキャラクターだった場合、その息子である仲哀天皇は果たして実在の人物だったのか、ということだ。
見ての通り、13代から14代への継承だけが少し不自然なんだよ。
14代の仲哀だけが天皇の息子ではなく、叔父からの皇位継承となっている。
この系図を見る限り、ヤマトタケルの存在こそが仲哀以降の系譜を繋ぐ唯一のバイパス。
もしここで「ゴメンね~、ホントはヤマトタケルなんて実在してないのよ。てへぺろ」なんて事態になったら、系図の前提が全部崩れてしまうじゃないか。
つまり仲哀すら実在しないことになってしまい、あの九州での神功皇后とのくだりはどうなってしまうんだ?
というか、ヤマトにやってきた応神は一体誰の子なんだ?という話にもなってしまうよね。
ふと、私は思ったんだ。
あれ?このパターン、どこかでも見たことあるな、と。
一生懸命思い出してみたら、それは聖徳太子のことだったよ。
実は彼の息子の山背大兄皇子って、仲哀天皇の境遇と酷似してるんだ。
【山背大兄皇子と仲哀天皇の共通点】
①どちらもレジェンド級の偉大な人物を父親に持つ。
②どちらの父親も、偉大な人物でありながら天皇になっていない。
③両者とも想定外の死を遂げている。
④彼らの死を契機にして、どちらのケースでも歴史が大きく動いている。
このピッタリ符合する共通点、実に興味深いでしょ。
かたや仲哀の死を契機にして神功皇后と応神天皇が東征を成し遂げ、かたや山背大兄皇子の死を契機にして中大兄皇子と中臣鎌足が大化の改新を成し遂げたんだ。
つまり、こう考えられないか?
仲哀天皇も山背大兄皇子も、時代の変革の為に意図してキャスティングされた「死亡する為のキャスト」なんじゃないか、と。
そして、その死が大きな喪失感を伴うよう、彼らの父親には英雄伝説を盛りに盛りまくったわけさ。
お陰でヤマトタケルも聖徳太子も、今じゃ神様級の超人扱いである。
と考えると、こういう演出をしたのは記紀の編纂を命じた天武天皇ってことになるね。
あるいは持統天皇、藤原不比等、そのあたりの人物だろう。
それにしても興味深いのは、神功皇后に付き従った重臣・武内宿禰の存在である。
ひとつ記紀には魔訶不思議な記述があって、武内宿禰が景行→成務→仲哀→応神(神功皇后)→仁徳という5代の天皇に仕えてるというんだ。
享年は300歳前後ともいわれていて、完全に仙人だよね。
特に重要なのは、仲哀→応神→仁徳という史上最も謎めいた三者の王権継承の場に彼が毎回いたこと。
何となく、神功皇后に付き従ってる武内宿禰、推古天皇に付き従ってる蘇我馬子、斉明天皇に付き従ってる蘇我入鹿、この3つの女帝+重臣パターンがどうしても重なって見えちゃうのよ。
実際、蘇我氏は武内宿禰の末裔を名乗ってるわけで・・。
実をいうと持統天皇は母が蘇我氏であり、母系の観点に立てば彼女は完璧に蘇我氏の正統後継者である。
それは推古天皇にも同じことがいえるし、そもそも蘇我氏嫌いの天智天皇が2人も蘇我から嫁を取ってるのはどゆこと?
同じ女帝でいうと、元明天皇も母が蘇我氏。
もはやここまでくると、蘇我氏は母系の王族という解釈でいいんじゃないだろうか。
父系の天皇家に対して、母系の蘇我氏。
このイビツな2極体制は一体いつから始まったのか?
それは蘇我氏の家系図を紐解けば話は早いんだが、これが奇妙なことに馬子の親父の代より前は綺麗に省略されてる。
これ、明らかにおかしな話だよね・・。
で、ここからは私なりの仮説を書く。
やはりヤマトにおける母系の起源は、母系社会の九州から東征してきた神功皇后じゃないだろうか。
彼女の軍がそれまで纏向にあった王朝を駆逐し、ヤマトを占拠してしまった。
しかし旧王朝も全滅したわけでなく、残存勢力を近隣の河内に結集し、これが後の河内王朝の起源となる。
ポイントは、河内王朝が父系、東征王朝が母系ということだ。
もう一度、父系と母系をおさらいしておこう。
【母系ルール】
・一族の首長は女性。
・後継者は、首長の子の中から女子が選ばれる。
・男子は後継者となり得ず、他家に行くこととなる。
【父系ルール】
・一族の首長は男性。
・後継者は、首長の子の中から男子が選ばれる。
・女子は後継者となり得ず、他家に行くこととなる。
つまり、神功皇后の本命は男子じゃなく女子。
で、彼女は次こそ女子を産もうと日々SEXに励んだんです。
相手は誰だか知らんけど、まぁ武内宿禰でいいじゃん。
お爺ちゃんだから勃起に2時間かかるけど、3時間かけてSEXしたのよ。
で、その宿禰の頑張りの甲斐あって女子が生まれた。
で、ここで用済みになったのが応神天皇であり、彼は他家へ婿に行くことになったわけだ。
そこで婿に行った先が応神を父系の王にし、河内にいた豪族たちの支援の下に河内王朝をスタートしたわけだね。
つまり南北朝時代みたく、近畿にふたり王が存在したってこと。
しばらく2王朝は共存してたんだが、だんだん先細りになってきたのが母系王朝の方である。
そりゃそうさ、産む体がひとつの母系制度は後継者を作るのに適さない。
で、ある時期に母系王朝の側が父系王朝に合併を申し込んだんだ。
それこそ公武合体みたいなもんで、「公式な王は父系でいいですから、うちの方からは常に皇后を立てさせて下さい」っぽい話を母系管理者の蘇我氏がして、それを父系が受け入れる形で王朝の一元化がされた。
それが大体6世紀終盤~7世紀初頭の話かな。
ただ、母系側もなかなか狡猾なもんで、じわじわと浸食してきて父系を食い始めたんだよね。
それを見て「これは蘇我氏全滅させなあかん」と感じたのが中大兄皇子で、実際にほぼ全滅させちゃったんだ。
これで晴れて父系一本に絞れるわ~と喜んでたら、皇子の子供は女子ばかり生まれるという蘇我の呪いがかかってた、というオチまでちゃんとあるんだよ。
天武天皇が記紀を編纂するにあたって、ふたつ重要なポイントがあった。
①父系を正規王朝とする為、これまでの母系王朝(蘇我氏)の痕跡を抹消すること。
②現王朝、河内王朝、纏向にあった初期王朝を父系の一系王朝として繋げること。
まずは①の実現の為、推古朝時代の蘇我氏の功績を全て聖徳太子という架空キャラクターの実績とした。
さらに架空キャラクターの息子を設定し、その息子を蘇我氏が殺したという残虐非道を捏造して蘇我氏排斥に正当性を与えた。
そして②については、纏向の王朝に仲哀天皇という架空キャラクターを設定し、神功皇后との婚姻を捏造して応神天皇の血統を強引に纏向と繋げた。
ヤマトタケルの存在については、応神を伝説的英雄の孫とすることでハクをつける狙いがあったと思う。
さらに継体天皇を応神五世の孫ということにし、血統の連続性を設定した。
つまり応神天皇が最重要の中継点となっており、まさに彼こそがミッシングリンク。
ここまで便利に使われるミッシングリンクってことは、彼もまた架空キャラだという可能性も出てきたよね・・。