なぜ宮崎作品は「裏設定」がこんなに多いの?「ハウルの動く城」
今回は、宮崎駿作品「ハウルの動く城」について少し書いてみたい。
・・これ、正直いうと賛否の分かれてる作品だと思う。
一応、興行収入的には「千と千尋」「もののけ姫」に次ぐジブリ第3位。
<邦画興行収入ランキング>
【1位】
鬼滅の刃-無限列車編-(2020年)/404億
【2位】
千と千尋の神隠し(2001年)/316億
【3位】
君の名は。(2016年)/251億
【4位】
ワンピース FILM RED(2022年)/203億
【5位】
もののけ姫(1997年)/201億
【6位】
ハウルの動く城(2004年)/196億
言っとくけど、これはアニメ映画のランキングじゃないよ。
実写も含めた「総合ランキング」なんだが、上位はアニメで独占されてるということ。
まぁ何にせよ、「ハウル」は邦画史上6位のヒット作である。
なのに、公開当時から「内容がワケ分からん・・」という声がポツポツ出ていた。
そこは、私も同意する。
そもそも、この映画がヒットしたこと自体が「もののけ姫」⇒「千と千尋」のジブリフィーバーの恩恵によるもので、内容がウケたからヒットした、というものでもないだろう。
キムタク効果もあっただろうし。
大体、メインヒロインがこれだぞ↓↓
こんなヒロイン(cv倍賞千恵子)で、よくヒットしたもんだわ・・。
そもそも、この作品が「ワケ分からん・・」と言われた要因というのは、めっちゃ重要な情報を僅か数秒という瞬間的描写の1回で済ませてしまう、その不親切な作品構造にあると思う。
これ、どう考えても宮崎さんの悪い癖だよ。
まだ「ナウシカ」や「ラピュタ」の頃はそういう癖がなかったのに、作品を重ねるごとにその癖が顕在化するようになってきた。
これ、一説には「高畑勲効果」といわれてるのね。
宮崎さんが作品作りで最も意識するのは
「高畑さんが、この作品をどう評価するか」
であり、ちゃんと高畑さんに絶賛されることこそが最終目標なのよ。
ところが困ったことに、高畑さんはめったに作品を誉めない人である。
誉めないどころか、ことごとく宮崎作品の描写における矛盾点をズバリ指摘してきたりしやがる。
案外、それには反論の余地がなかったりするので、宮崎さんも意地になったのか、作品を重ねる毎にプロットが緻密になり、そして膨大になっていったという。
すると、どういう現象が起きるのか?
それは、プロットにはきちんとあるのに、作品には出てこない「裏設定」がどんどん増えていくことになったのよ。
初期はプロット10に対して作品内の描写が8ぐらいあったのに対し、いつの頃からかプロット10⇔描写5~6というところにまでなってしまった。
つまり、プロットのうち4~5は全て「裏設定」に回されてしまう、ということ。
それが特に顕著になったのが、「ハウル」の前作、「千と千尋」だろう。
「千と千尋」のプロットにおいて、おそらく最もキモとなる部分は
「ハクとは一体何者なのか?」
という部分である。
作中では、それを「ニギハヤミコハクヌシ」、つまり千尋が幼い頃住んでた家の近所にあった「コハク川」の神様、という説明だけにとどめている。
だけど、それだけじゃ
・神様は昼間だと見えないはずなのに、なぜハクだけ千尋に見えたのか?
・なぜ、ハクは最初から千尋の名を知ってたのか?
・なぜハクはここまでして、千尋および彼女の両親を救おうとするのか?
などなど、最後までツジツマの合わないことだらけである。
というのも、実はプロットだと
「ハクの正体は、コハク川に落ちた千尋(幼少期)を助ける為、川に入って運悪く溺死した千尋の兄(が川の神様になろうとしているもの)である」
となってるらしいのね。
別にこれはジブリにありがちな都市伝説の類いなどではなく、作中には限定的ながらもちゃんと描写があるのよ。
両親は千尋を気遣う意味で、「自分のせいで兄が溺死」という事実をずっと隠してきたんだが、少なくとも母親は無意識にそれが態度に出ており、千尋との会話の際、目を合わせないという不自然さが序盤で意図的に描写されている。
つまり、プロットに忠実な形でアニメ制作されているものの、肝心の「兄の死」についてはハッキリとした形では描写しない、という不思議。
このへんの宮崎監督が意図するところは、正直、よく分からない・・。
ただ、明らかに「千と千尋」から「裏設定」の強度が顕著になってきてて、それが「ハウル」になると、またさらに増幅されちゃってるわけさ。
「ハウル」の中で特にワケ分からんのは、ヒロイン・ソフィーのコロコロと変わる顔である。
最初、私はこれを「ソフィーの主観」「心象の視覚表現」と解釈してたんだが、どうやらそうじゃないみたい。
これの原作小説には、はっきりソフィーに魔女の素養があることが言及されてて、その実態は「言霊を使う魔女」だという。
言霊、つまり彼女の言葉には力が宿ってるということね。
そのポイントを押さえてこそ、序盤、悪魔・カルシファーがなぜソフィーに従ったのか?という謎も解けてくる。
そして、同じく序盤にソフィーは子供から
「お婆ちゃんは魔女?」
と聞かれ、ふざけて
「そうだよ、魔女だよ」
と答える場面が2度ほどあったわけで、もし彼女が言霊使いなら、この時の言葉で魔女として覚醒したことになるんだろう。
ただし本人は無自覚ゆえ、魔力の発動は不安定。
ちなみに、魔女というのは魔力で自分の容姿を自在に変えることが可能で、それは「荒れ地の魔女」を見てりゃ分かることである。
つまりコロコロと変わるソフィーの容姿は、必ずしも主観とは言い切れないということ。
そして上の画の通り、終盤のソフィーは自分の髪の毛を与えてカルシファーと契約し、ここからはもう純度100%の魔女である。
最後、なぜハウルは助かったのか、なぜカカシの王子は呪いが解けたのか、みんな全てソフィーの魔女覚醒ありきのハッピーエンド。
ただ、宮崎監督はこれら一連の流れを極めて控えめに描写しており、かなり伝わりにくいと思うんだ。
「このぐらい、ちゃんと画を見てりゃ子供でも分かるでしょ?」
というのが巨匠の思いだろうが、申し訳ない、私は1回見ただけじゃ分からなかったよ。
そして、問題のラストシーン。
実はこれ、「戦争終結」から数十年後(?)の光景らしいね。
魔女になったソフィーは城の時の流れを止め、下界を捨て、「家族」と共に悠々と天空で暮らしてるらしい。
一方、下界ではまた再び隣国との間に戦争が起きようとしてる・・とのこと(鈴木敏夫談)。
そんな「裏設定」、見てるだけじゃ絶対分からないっつーの!
だけどさ、もしラストシーンにそういう意味が込められてるのだとしたら、ある意味でそこがこの作品最大のメッセージ性じゃん。
だって、また戦争が起きようとしてるのに、ソフィーたちは「我関せず」のスタンスで天空から傍観しようとしてるんでしょ?
これ、今まで「みんなの為に頑張ってきた」、宮崎作品における既存主人公たちのスタンスとは完全に真逆にも思える。
「現実とは向き合わない」
「家族(自分が抜擢した人たち≠肉親)だけで天空に退避」
ひょっとしてこれ、当時流行っていた「エヴァンゲリオン」に対するアンチテーゼ?
「逃げちゃダメだ」を連呼して、必死にセカイと向き合おうとする碇シンジに対して、「逃げればよくね?」と言ってるようなもんである。
思えば、「ハウル」でソフィーと敵対する立場にあったのがサリマン先生で、彼女はいかにも悪役っぽいオーラを放ってたものの、よく考えたら悪でも何でもない。
ただ単に、彼女は「現実」の政治と向き合ってただけである。
ハウルや荒れ地の魔女のように現実から逃避したりせず、むしろ現実と向き合い、それをコントロールしようとしていた。
これはこれで、ひとつの生き方として認めるべきだろう。
宮崎監督もそこを分かってるからこそ、「ソフィーたちがサリマンを倒す」みたいな分かりやすい勧善懲悪のプロットにしなかったんだと思うよ。
う~む、しかし考えれば考えるほど、この「ハウル」は王道からズレている・・。
よくもまぁ、こういうので興行収入196億も叩き出せたもんだ。
なんというか、こういうのは「時代」もあったと思うんだよね。
ちなみに、「千と千尋」が公開された2001年、カンヌ映画祭にて監督賞を獲ったのはデビッドリンチだった。
その時の作品は「マルホランドドライブ」。
これ、絶対に1回見ただけじゃ理解できない超難解系のやつで、あまりにも難解すぎるから、
①映画エンドロールの終了後にパスワードを表示
②HPにアクセスしてパスワード入力
③すると、作品を読み解く為の「10のヒント」がデビッドリンチから示されます
というクソめんどくさい趣向が凝らされてたのね。
そういうことするぐらいなら、もっと本編を分かりやすく作れ!
とツッコみたいのはヤマヤマだったんだけど、まぁ早い話、この時代って「難解」がトレンドだったということ。
ジブリもまた、その時流に乗ってたのかも・・。
でも作品がだんだんと難解になるだけに、「ハウル」の原作、解説本、設定集、絵コンテ集など、結構売れたのでは?
なんか、鈴木敏夫と徳間書店の策略にハマった気がするなぁ・・。
これぞ、メディアミックスの真髄である。
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