なぜ、出崎統は宮崎駿を嫌ったのか?
今回は【出崎統vs宮崎駿】論について書いてみたい。
このアニメ界のレジェンド御二人に、昔から根強く不仲説があるのをご存じだろうか?
・・いや、世間的には【富野由悠季vs宮崎駿】の方が有名かもしれない。
というのも、富野さんは明確に「ナウシカぶっ潰す!」とか言っちゃってたから(笑)。
でも、あれって私から見ると、富野流のリスペクトですよ。
彼は「自分より格上」と認めたものを「仮想敵」に設定するクセがある。
なんせ全共闘ベースの人だから、まず仮想敵の設定を基礎にする人なんだと思う。
だから口では「潰す!」とか言ってても、別に御二人が特に不仲ということはないっぽい。
・・ただねぇ、これが出崎⇔宮崎になると、ちょっと話がややこしくなってくるわけで、こっちの方はホントに気まずい空気があったと複数の人が証言している。
出崎統(1943年~2011年)
宮崎駿(1941年~)
この御二人には実をいうと共通点があり、それは「学生時代から既にプロの漫画家だった」ということなんだ。
そういう人はあまり多くないし、おそらくお互いに意識したことだろう。
そして、御二人ともが手塚治虫の漫画に感銘を受けて漫画家を志したクチである。
手塚治虫。
そう、この先生の存在こそが、出崎⇔宮崎論を語るにおいて絶対欠くことのできないキーマンなんだ。
手塚治虫(1928年~1989年)
手塚先生といえば「漫画の神様」という呼称が有名だが、その一方で「日本アニメーションの父」という呼称もあったりする。
実際、日本初の連続テレビアニメは彼が作った「鉄腕アトム」で、この作品がその後の日本アニメの<指標>になったわけね。
で、その<指標>は何かというと、
<3コマ打ち(1秒における作画8枚)>
というものだったんだ。
いわゆる「日本式リミテッドアニメーション」の出発点であって、これは「ディズニー式フルアニメーション」とは対極ともいえるものだね。
このスタイルを考案したのが他でもない手塚先生であり、そういう意味じゃ「日本アニメの父」という呼称もあながち間違ってないわけさ。
じゃ、「フルアニメーション」は何かというと、それは
<1コマ打ち(1秒における作画24枚)>
というものなんだ。
そもそも、なぜ作画24枚なの?と思うだろうけど、これはフィルムそのものが1秒24分割という構造になってるわけで、昔から映画は1秒につき画像24枚という形で制作されてきてるんですよ。
だから、アニメの祖・ディズニーが<1コマ打ち>でいったのは極めて自然な選択だったともいえよう。
ただ、こういうフルアニメは作画作業がめちゃくちゃ大変なので、さすがにディズニーもやがて<2コマ打ち(作画12枚)>併用になっていくんだが、でもさすがに<3コマ打ち>はやらなかったらしい。
じゃ、ここで<1コマ打ち><2コマ打ち><3コマ打ち>の比較検証をしてみましょう↓↓
・・別に、どれも大して変わらんやん?
と思ったかい?
まぁ、そこの感じ方は個人差があるだろう。
ただ、巨匠・宮崎駿は、どっちかというとフルアニメの動きを理想と考えてる人なんですよ。
とにかくモーションに対して異様なコダワリをもつ人だから・・。
いや、これは巨匠に限らず、旧東映勢力(ジブリ含む)はもともとそういう志向だったんだと思う。
だって、母体が「映画会社」だから。
でも、そんな彼らですら、結局<3コマ打ち>でアニメを作ってたんだけどね・・。
それほどに、「鉄腕アトム」が決定付けた<3コマ>は日本のスタンダードになったのよ。
でも、これを見てもらいたい↓↓
見ての通り、巨匠も初期はともかく、だんだんと「フルアニメ」に寄せていってるんだわ。
特に「崖の上のポニョ」の28.2枚とか異常である。
そもそもフィルムの構造は上限24枚なのに、なんで28.2枚になっているのか意味が分かりませんけど・・(笑)。
あと、今年はテレビアニメでも実は<1コマ打ち>をやった作品があったのよ。
それが、これです↓↓
うん、3DCGでやると、「フルアニメ」ができちゃうんだよね。
で、これをやったのが東映アニメーションであり、あぁ~なるほどな、と。
ただ、この「ガールズバンドクライ」のキャラの動きを見て、なんかキモイと感じた人もいるだろう。
そうなんだ。
我々の感性って「リミテッドアニメ」に慣れすぎてて、逆に「フルアニメ」だと抵抗感すらあるのよ。
それって一体何なのかというと、まぁリミテッド独特の「タメ」だったり、そういったケレン味みたいなものがフルアニメの方ではあまり感じられないからね。
・・そう、ポイントはまさにそこ。
そういう<リミテッドならではのカッコよさ>というものを開発したのが、他ならぬ出崎統という演出家なんだ。
彼がやったことは、それこそ宮崎駿の真逆。
彼は作画枚数を増やそうとはせず、むしろ「少ない作画枚数で、いかにしてカッコよく見せるか」というところにこそ注力した人である。
悪い言い方をすると、出崎さんのキャラの動きは「非現実的」だよね。
人間ではないアニメキャラならではフォーム、とでもいうべきか。
彼が使うテクニックは
・止め絵の多用⇒作画枚数削減
・3回PAN⇒作画枚数削減
・周りを暗くし、キャラのみを表現⇒背景作画の省略
などなど、悪い言い方をすると、かなり「手抜き」に近い。
でも、そこを彼はネガティブに感じさせない技術に長けてて、たとえば照明の入れ方で場にケレン味を出したりとか、また止め絵に杉野昭夫という異様に画力の高いアニメーターを起用し、逆に通常アニメの何倍もの視覚効果を得たりもしたわけさ。
で、そこまでして「リミテッドアニメ」にこだわった出崎さんの哲学は一体何だったのかというと、私が思うに、そこは「手塚治虫先生への尊敬/崇拝」がベースになってるんじゃないか、と。
なんせ、元虫プロだからね。
尊敬する手塚先生の構築した「リミテッド」は絶対であり、そのリミテッド前提での演出こそが彼の信念だったんだろう。
で、話をモトに戻すが、出崎さんが宮崎駿を嫌う理由についてだが、それは一時期、宮崎さんが<手塚治虫バッシング>に走ったことが一番の要因だとされてるのよ。
「アニメーションに対して、彼(手塚治虫)がやったことは何も評価できない。虫プロの仕事も、僕は好きじゃない」
「手塚さんが喋ってきたこととか主張したことというのは、みんな間違いです」
・・喧嘩売っとんのか、コラ(笑)。
ここまで言われてしまえば、そりゃ出崎さんが宮崎さんを嫌うのも当然だと思うわ~。
手塚先生のみならず、虫プロの否定、ひいては自分の否定だからね。
もともと、元虫プロvs元東映というライバル関係ではあったものの、それにしても宮崎さんの言い方はかなり挑発的である。
まぁ、宮崎さんは手塚先生のことを「神棚に置いてはいけない人(不可侵の聖域にしてならない)」とも語っていて、手塚崇拝一色の業界に敢えて一石を投じたかったんだろうけど。
でもさ、彼も出崎作品のことは特に批判してないんだよね。
というか、宮崎さんの出崎さんに対する悪口は聞いたことがないし。
一方、出崎さんは出崎さんで、彼は手塚先生の逝去後、明らかに手塚崇拝というべき作品を発表している。
OVA「ブラックジャック」(1993年)
これ、見たことある?
「ブラックジャック」のアニメは色んなシリーズがあるけど、見るべきものは、このOVA版一択ですよ。
これだけ次元が違うというか、手塚愛のスケールが違う。
ぶっちゃけ、原作はめっちゃイジって原型すらとどめてないんだけど(笑)、それでも主人公ブラックジャックが原作よりもブラックジャックしていて、これがまたイイんですよ。
出崎演出もちょうどこの頃が円熟期の完成形ともいえて、ぶっちゃけピークともいえよう(正直これ以降、ややキレは鈍っていく・・)。
そもそも、この「ブラックジャック」自体が、手塚先生にとって特別な作品なんだよね。
なぜって、虫プロの倒産が1973年。
そして、その1973年から連載を始めたのが「ブラックジャック」なんだわ。
これが何を意味するのかというと、手塚先生が負債を抱えて切羽詰まってたということなんだよ。
つまり、借金を返す為の漫画であり、ここで先生にとって「最後の切り札」だった<医療>を出してきたわけね。
皆さんご存じの通り、手塚先生は大阪大学の医学部卒で、医師免許保有者である。
普通、そういうおいしいバックボーンがあるなら、まずそれをネタに作品を作るよね?
たとえば、安部譲二は元ヤクザだからこそ「塀の中の懲りない面々」みたいな小説を書いたわけだし、最近では「ハコヅメ」、あれの作者って元警察官だからこそ、あそこまでリアルな警察モノを描けたんでしょ?
でも手塚先生の場合はそういう原点を敢えて封印し、SFとか歴史モノとか、医療に関係ないジャンルをずっと描いてきたのさ。
多分、それは「切り札」としてギリギリまで温存しておきたかったんだろう。
だけど虫プロの倒産によって、遂に大事な「切り札」を使わざるを得なくなってしまった・・。
だから、出崎さん、ならびに杉野さんにとってOVA「ブラックジャック」制作は、元虫プロとしての一種の贖罪、そして同時に恩返しでもあったんだと思う
このOVAを未見の方は、ぜひご覧になってみてください。
もうね、出崎&杉野の手塚愛に満ちてて、私これ見て泣いたからね。
出崎ファンの中には、これを「代表作」に推す人も結構いるみたい。
手塚先生にとって「ブラックジャック」が切り札だったように、出崎さんにとっても「ブラックジャック」は切り札だったんだと思う。
これぞ、まさに
「虫プロの最後の結晶」
といっていい作品である。