「さらざんまい」「ユリ熊嵐」から幾原邦彦を読み解く
今回は、アニメ界のカリスマ・幾原邦彦氏について書いてみたい。
彼のオリジナル作品として知られてるのは、
・少女革命ウテナ(1997年)
・輪るピングドラム(2011年)
・ユリ熊嵐(2015年)
・さらざんまい(2019年)
の4つだろう。
見ての通り「ウテナ」と「ピングドラム」の間は十数年が空いており、でも2011年以降はコンスタントに作品を発表している。
この時系列、および内容から見て、私は「ピングドラム」と「ユリ熊嵐」と「さらざんまい」は3部作だという解釈をしてるのね。
3つとも見てるという人には、このニュアンスをご理解いただけると思う。
というのも、この3部作にこういうキーワードが出てくるのよ。
・透明
・箱
・円(ドラム)
この3つともが「ピングドラム」に出てきた概念なんだが、そもそも「ピンドラ」は何かと詰め込みすぎた反省もあったので、幾原さんなりに「もっと皆さんが理解をしやすいよう、ふたつに分解して咀嚼してみよう」と考えた結果、新たに「ユリ熊嵐」と「さらざんまい」という2作品が生まれたんじゃないかな?
「ユリ熊嵐」は
・透明
そして「さらざんまい」は
・箱
・円
こうしてテーマを分け、各々に深掘りしたという印象だね。
そもそも「ユリ熊嵐」は百合、「さらざんまい」はBL。
つまり、この2作品はふたつでひとつ、いわばコインの表裏のような関係。
しいていうなら、難解な「ピングドラム」を補足説明する2冊で1セットの副教本、といったところだと思う。
さて、まずは「ユリ熊嵐」から解説していこう。
この作品では「透明」が分かりやすく説明されてるんだけど、それについては、劇中のセリフから引用した方が話は早いだろう。
「私たちは、透明な存在であらねばなりません。
友達は、何より大切ですよね。
今、この教室にいる友達、それが私たちです。
その私たちの気持ちを否定する人って、最低ですよね。
私たちから浮いてる人って、ダメですよね。
私たちの色に染まらない人は、迷惑ですよね。
そういう空気を読めない人は、悪です。
私たちは、次に排除する悪を決めねばなりません」
このHRでの学級委員の演説後に生徒たちは投票して、悪の生徒を1名決めるという学校の伝統的なシステム。
これを「排除の儀」といい、ここで悪に決まった生徒はその後クラスメイトたちからのイジメを毎日受けることとなる。
いや、ここでは「イジメ」という言葉を使わず、「透明」の嵐という言葉を使うらしい。
そう、「透明」になるというのは自身の存在を消して全体に溶け込み、意思を一切持たず、集団の歯車になること、装置化することのようだ。
当然、多数決の満場一致で決まったなら、全員イジメに加担しなくてはならない。
拒否すれば、自分は悪ということになるんだから・・。
最終回、クラスメイトは全員、ヒロインに銃口を向ける。
人を殺せば罪悪感が湧くのが普通だろうが、この場合は全員で撃つから自分が殺したという意識は希薄になる。
それに全員の投票で殺すと決まった以上、自分個人が責任を問われることじゃない。
そう、「透明」になれば人を殺しても責任をとらなくていいんだよ。
幾原さんは「ユリ熊嵐」で、この「透明」な人たちの狂気を見事に描いている。
結局オチは、「こっちの世界では処刑されたけど、あっちの世界では幸せになっただろう」的なふわっとしたものだった。
ヒロインを処刑した者たちは特に報いを受けることもなく、「悪を倒した」と勝利宣言してるぐらいだから、今後も「透明」の嵐は継続していくんだろう。
人間とは「透明」になってしまうと、かくも醜く、倫理のない存在になってしまうものなのか・・?
さて、次は「さらざんまい」。
ここでは、繰り返し「箱」が出てくる。
よく考えりゃ「ピングドラム」や「ユリ熊嵐」でも「箱」は出てくるわけで、幾原さんにとって、これは重要なメタファーなんだろう。
この作品では、「箱」の中身は人には絶対見せられない恥部と定義されてるようだ。
他者を隔てる心のバリアー、といったところか。
人とは繋がりたい、でも踏み込んでほしくない。
「さらざんまい」では、そういうジレンマが描かれている。
そして「箱」という四角い立方体に対し、幾原さんはそれと対極になるものとして、丸い「円」を表現していた。
これは人と人との繋がり、循環を意味している。
幾原作品では「箱」や「円」に限らず、ありとあらゆるところにメタファーが存在する。
たとえばの話だが、この作品では「ピングドラム」同様にモブが記号化されてるんだよね。
これは人の匿名性を表現しており、こういう記号化は妙に怖い。
「透明」になった人間、顔が見えない「箱」のような人間ともいえるのさ。
繋がりのない人々なんて、しょせん風景でしかないということ。
思えば、「化物語」の新房昭之監督も同じような表現をしてたっけ。
新房さんと幾原さんって、「まどかマギカ」の表現もそうだが、妙に似てると思う。
このふたり、やっぱお互いに影響を受けてるのかな?
特に幾原さんの場合、細田守をはじめ業界では信奉者がたくさんいると聞くんだけど、意外なところだと「月刊少女野崎くん」の中でも幾原オマージュがあることに皆さんはお気付きだろうか。
このタヌキもまた、「ピングドラム」のペンギン、「ユリ熊嵐」のクマ、「さらざんまい」の河童、いつも必要以上に動物をぶち込んでくる幾原さんへのオマージュだと思うよ。
しかし、「さらざんまい」は笑ったね。
アホっぽさでは、幾原史上1位だと思う。
もともとバンク(定型パターンの映像使い回し)には定評のあった幾原さんだが、「さらざんまい」ではそのバンクで笑わすという新境地に達していた。
ここにきて吹っ切れた感があるよなぁ・・。
それに最終回のオチも、今までと違って大団円のハッピーエンドだったのには驚いたわ。
新海誠が、「君の名は」で急にPOPになったのと同じ印象である。
ひょっとして、売れセンに目覚めつつあるのか・・?