せいぞーんせんりゃくぅぅ!「輪るピングドラム」
今回は、「輪るピングドラム」について書こうと思う。
これは幾原邦彦作品である。
幾原さんといえば、なぜか必ず「鬼才」というフレーズが名前の前に付くのがお約束だね。
天才ではなく、鬼才。
つまりエッジがきいてるという意味なんだろうが、このへんのニュアンスは彼の作品を見れば理解できる。
めっちゃ芸術家肌というか、とにかく作家性が濃いのよ。
かなり、文学寄りの作風である。
村上春樹の影響か、めっちゃメタファーを多用するので、ぼ~っと見てたら話が確実にワケ分からんようになるだろう。
「輪るピングドラム」などは、その典型。
ある意味「エヴァンゲリオン」より難解で、しかも考察する人によって全く違う物語解釈に分かれるという、まるで抽象画である。
この作品の舞台は2011年。
その「16年前」の事件が物語最大のカギということで、16年前ってことは1995年、つまりは地下鉄サリン事件をモチーフにした作品ということだ。
今までオウム真理教をモデルとしたフィクションは色々あったが、たとえば是枝裕和監督の「DISTANCE」とか塩田明彦監督の「カナリア」とか、そういうのは生々しく見てて辛くなったのに対して、「ピングドラム」は寓話っぽい表現なので割とイケる感じ。
ただ寓話っぽいからこそ逆に難解になったというべきか、どこまでが現実でどこからがメタファーなのか、その線引きがはっきりしないのよ。
たとえば、「ピングドラム」の中では「こどもブロイラー」という処理場が出てくる。
この場所は「選ばれなかった子供が引き取られ、やがて彼らはシュレッダーにかけられて透明になる」という謎の施設である。
これは現実?それともメタファー?
おそらく、メタファーだろう。
実際、公共施設が児童を大量に引き取って殺処分してるなら大問題だけど、ここでは「殺される」じゃなく「透明になる」という表現。
透明になる、これってどういうこと?
何にせよ、社会的な死をイメージさせる。
彼らは、そこで死という「運命」を背負ったのかもしれない。
主人公の晶馬は、その中にいたヒロインの陽毬を救い出すんだけど、これはいわば「運命」への反逆である。
後々になって発覚する陽毬の余命が僅かという事態は、「そう簡単に運命は変えられない」という世界の基本ルールに拠るものだろうね。
一方でルールを覆し、奇跡を起こせるファンタジックなキャラも出てくる。
それが「運命の乗り換え」能力を持つ桃果と、「呪い」能力を持つ眞悧。
どうやら、例のカルト教団は眞悧のものだったらしい。
16年前に彼の凶行を止めようとしたのが桃果であり、ふたりは直接対決の結果、相討ちで両者とも死亡。
「ピングドラム」という物語は、亡霊となった(?)このふたりの代理戦争というべき構造なんだ。
希望の象徴・桃果と、絶望の象徴・眞悧。
と書くと、まるで眞悧が悪魔のようだが、こいつはこいつで意外と的を射たこと言ってるのよ。
「世界は、いくつもの箱だよ。
人は体を折り曲げて、自分の箱に入るんだ。
ずっと一生そのまま。
やがて箱の中で忘れちゃうんだ。
自分がどんな形をしていたのか、何が好きだったのか。
だからさ、僕は箱から出るんだ。
僕はこれから、この世界を壊すんだ」
多くの人が、彼の言わんとしてることを理解できるだろう。
誰だって窮屈な思いをしてるし、自分を閉じ込めてるものをブッ壊したいと考えたことは一度や二度、必ずあるはずさ。
95年といえば、バブル崩壊直後。
同年に阪神大震災を経験したこともあり、「あ、世の中って意外と脆いな」と多くの人たちが気付いた年でもある。
こうやって何もかもブッ壊れれば、何かが変わるんじゃないか、と。
戦前の日本は「どうあっても我が国の軍国化は止められない」と皆が諦めてたけど、皮肉にも敗戦して国を破壊されまくった結果、我が国は平和国家として戦前よりむしろ良い形に再生することができたんだ。
そう、必ずしも壊すことが絶対悪というわけじゃないのよ。
ただ、自分を閉じ込めてるものをブッ壊す⇒地下鉄テロ、という論理の飛躍は全くもってワケ分からんが・・。
一方、桃果の方も今の世界がベストとは考えてなくて、だからこそ、理不尽な目に遭ってる子を見ると個々に救済しようとしたわけで。
ただ、そのやり方はあまりにも地道で、めっちゃコスパが悪い。
ついでにいうと、彼女が救済した時籠ゆり、多蕗桂樹、両名ともが16年前の事件以降は性格が歪んで変なことになってるし、それは妹の苹果にしても同じく。
つまり、桃果に関わった人たちは誰も幸福になってないんだよね・・。
彼女は救済したつもりでも、逆に救われた者は呪いをかけられたに近いわけで。
一応、構図としては【桃果=善】【眞悧=悪】と捉えるべきなんだろうが、私から見ると、どっちもどっちという感じがするなぁ。
「ピングドラム」は難解ゆえ私は何回も見ており、繰り返し見てるからこそ初めて気付くことが、第1話冒頭から周到に張られた伏線である。
まず、陽毬や晶馬らが住む家の前をモブの小学生2人が通り過ぎていくんだが、その時に彼らはこういう会話をしてるのね。
「・・だからさ、リンゴは宇宙そのものなんだよ。
掌にいる宇宙、この世界とあっちの世界を繋ぐものだよ」
「あっちの世界?」
「カンパネルラや他の乗客が向かってる世界だよ」
「それとリンゴに何の関係があるんだ?」
「つまり、リンゴは愛による死を自ら選択した者へのご褒美でもあるんだよ」
「でも、死んだら全部おしまいじゃん」
「おしまいじゃないよ。
むしろ、そこから始まるって(宮沢)賢治は言いたいんだよ」
モブの2人が宮沢賢治著「銀河鉄道の夜」について語る、この会話。
これって、まんま最終回の展開を示す内容じゃん。
そうか~、第1話から既にヒントが出てたか~。
ネタバレすれば、オチは「運命の乗り換え」、つまりルート分岐オチだ。
いってみりゃ、同年に放送された「まどかマギカ」のオチに近いものがある。
ある呪文を唱えると、「運命の乗り換え」が可能だという。
しかし呪文を知る桃果は既に故人であり、おそらく呪文のヒントになるはずだった日記帳は眞悧の陰謀で焼失。
それでも桃果の妹・苹果は、最後の最後、呪文を大声で叫ぶ。
「運命の果実を、一緒に食べよぉぉぉ!」
このシーン、私は号泣したわ~。
アニメ史に残る名シーンだ。
しかし、色々と謎は残る。
苹果が呪文の正解に辿り着いたのは、あるふたりの人物に会ったからである。
そして、そのふたりの人物が苹果に会うことに繋がる、もともとのキッカケを作ったのは他でもない、眞悧なんだ。
眞悧はなぜ、こんな何の得にもならないことを敢えてしたんだろう?
分からんよなぁ。
眞悧って、ホントに悪の人なの?
あと、この呪文を唱えると唱えた者は代償として、呪いの炎に焼かれて消滅することになっている。
ということは、桃果は実の妹の苹果が呪いの炎で消滅することを覚悟してたのか?
おいおい、桃果ってホントに善の人なの?
結局は「みんなが幸せになりました」とはならず、ある者は助かり、ある者は消滅した。
あくまで等価交換の範疇内で、おさまるところにおさまったともいえるが、決してハッピーエンドじゃないだろう。
興味深いのは、桃果と眞悧の関係性である。
眞悧は、はっきりと桃果に対する恋愛感情を口にしている。
そして桃果だって、闘いつつも眞悧本人を滅しようとは決してしない。
おそらく、お互いにそういう次元の存在ではないんだろう。
両者がいてこそ、世界の生態系が成立するというべきか。
ただ、幾原さんはそこをはっきりと描かないんだよね。
敢えて余白を残し、「そこは皆さんで考えてみて下さい」というスタンスである。
詩人だよな~。
「ピングドラム」で幾原ワールドに興味が湧いた人は、ぜひとも「少女革命ウテナ」にもチャレンジしてほしい。
見ると、「あれ?これってシャフト制作?」と感じるはずだよ。
いやいや、シャフトよりこっちの方が元祖さ。
まるで「まどかマギカ」みたいな映像美。
きっとこれは「水星の魔女」の元ネタだと思うし、アニメファンならば絶対に押さえておくべき古典である。
そして「ピングドラム」は、人によっては歴代アニメ第1位に推す声もあるみたい。
その気持ち、分からんでもないなぁ。